鎌田道隆『お伊勢参り:江戸庶民の旅と信心』

お伊勢参り - 江戸庶民の旅と信心 (中公新書)

お伊勢参り - 江戸庶民の旅と信心 (中公新書)

 近世の伊勢神宮参拝について、さまざまな側面から扱った本。一般向けの近世の旅行に関する書物は、江戸からの旅を扱う事が多いので、関西や地元を中心とした内容は結構新鮮な感じがする。しかし、関西からだと4日ぐらいで行けるのだから、近いのだなあ。伊勢講による団体旅行の運営も興味深い。宿の手配や物資の確保など、中心となる人々はいろいろと手間がかかったようだ。
 第一章は奉公人や女子供が、何の準備もせずにいきなり伊勢に参拝する抜け参りの話。社会的経済的に恵まれない層の精神的な逃避先としての伊勢参り。京都奉行所の「番日記」から、このような家出人の届けが定型化されていることや、抜け参りに出た人を咎めずに再雇用する慣習など。
 第二章は、さまざまな史料から、伊勢参宮がどのように行われたのかを具体的に示している。井原西鶴の『西鶴織留』からどのように見ていたのか、奈良県西安堵村の伊勢講の史料から比較的近い場所からの団体旅行がどのように組織されたのか、関東や東北の富裕な人々が伊勢から関西、四国、中国も回る長期間の旅行を行っていたこと、讃岐国志度の浦の人が書き残した『伊勢参宮献立道中記』からどのような食事を楽しんでいたのかなどが紹介される。荷物運搬の馬借を雇う交渉や笠と蓑の新調、宿の予約など。宿のサービスを書き残して、次年度以降の旅行の際の資料として残しているのが興味深い。サービスが悪い所は容赦なく差し替えられたようで、このあたり現代とあまり変わらないなと。
 第三章は近世に何度か起こった、多数の人々が伊勢の参宮に押し掛ける「おかげまいり」について。数百万と多数の人々が一斉に訪れるため、道中や伊勢周辺の収容キャパシティを上回ってしまい、混乱状態に陥る状況。参拝者を接待するために近辺の人々が善意のボランティアを行う状況。十七、十八、十九世紀それぞれで、状況が微妙に違うのも興味深い。なんというか、おかげまいりってネットの炎上みたいな雰囲気を感じるのだが。
 第四章は旅について雑多に。「道中」という言葉が旅を指すようになる経緯や路銀の両替、一里塚が実際に旅をする人の意識にのぼらず、実際には宿場間の距離が重要だった事、宿屋の機能や駕籠や馬などの乗り物の費用など。宿屋が旅人の身元保証の機能や案内人などの仲介、荷物の発送などさまざまな役割を果たしていたというのが興味深い。前近代の旅において、洋の東西を問わず「宿屋」というのは重要だったわけだが、ここにもそれが現れているな。商用の旅行だと、宿屋の果たす役割はもっと大きくなるのだろうな。
 第五章は、筆者の研究室が中心となって毎年行ってきた、徒歩で奈良から伊勢へ参拝する「宝来講」による当時の旅行の再現。準備から、道程、沿道の人々との交流などが紹介される。徒歩の旅の場合、トイレや昼食、休憩や、途中で体調を崩した場合の支援など、沿道の人々とのかかわりが非常に大きいこと、沿道の人と旅人の間で密接な交流・情報交換が行われる状況がわかる。まして、この「宝来講」のように毎年通るなら、顔なじみもできて、風物詩みたいになるのだろうな。


 以下、メモ:

また雨の宮から風の宮への末社まわりでは、「これが縁結び仲人の神様」「これこそが腰抱くものなしの(?)安産・子安の神様」「これは姑と嫁の仲をよく守ってくれる神様」と案内者が口をたたき、若い男を見かけては「これが親から縁を切られる久離となりそうな時に、親たちを堪忍させるように後神に立ってくださるお宮」などと、それぞれの参詣人たちの風俗や顔つきをよく観察して案内する。参詣人の案内をする宮雀とも呼ばれる下級の神職たちは、一人で小さな宮を五つ六つも受け持っていて、「銭一文が千貫文の御利益になるのだから、鳩の目銭ではなく本物の銭をくわっと投げなされ」と欲張っていう。寛永通宝を投げる人はまれであって、年々歳々伊勢中の無駄な鳩の目銭というものの損失は計算できないくらいである。これこそ、「知恵のない神参りに無用の知恵をつける」という諺のとおりである。p.31

 この西鶴の文章は、原淳一郎『江戸の寺社めぐり:鎌倉・江の島・お伊勢さん』の第三部の文人の旅行で、富士山のお堂が賽銭を要求していたのと同じ目線だな。「宮雀」はこういう末社への賽銭で生活していたのだろうから、必死にもなるわな。それぞれの人を観察して、適切な神を紹介するというのは、なかなかの熟練技術とも言えそうだが。

 東安堵村の参宮路はほぼこのように固定しているが、年度によって宿泊地や回遊先に若干の変更がある。とくに宿泊地の変更は、宿屋側の事情と参宮一行の宿屋評価による場合が見られ、興味深い。先の寛政三年の記録には、宿屋情報を検討し直したようで、次のような記載がある。
  1.大津宿は宿屋のはり屋喜右衛門家がつぶれたので、万屋市兵衛家で昼食をしたが、  この宿は大変むさくるしく、なおその上粗末な扱いであるので、今後はこの宿は使わ  ないことにしよう。
  2.明星宿の河内屋六次郎家、ここも扱いが少々粗末な方である。名張宿の宿屋も賃銭  の割には粗末な扱いである。これらの宿は今後は違う宿に変えてよい。郡山宿の畳屋  元次郎家も大変悪い。
  3.松坂宿の大和屋は大変なご馳走で、こちらが気の毒になるくらいであるから、これ  からは茶代などしかるべき心付けをした方がよい。長池宿の大和屋十兵衛家も馳走に  励んでくれるから、ここも茶代など心付けをした方がよい。
 宿場に設けられている宿屋は、旅人にとっての宿泊所の役割だけでなく、多人数の団体旅行では、休憩所や昼食の場所でもあり、日程が決まるとあらかじめ予約しておくことが一般的である。宿屋の接待状況など、世話役の者は常に記憶または記録していたのであろう。それは村人たちにとって、伊勢参り難行苦行する信心の旅というよりは、旅の楽しみを味わいながら、各地を見てまわり、庶民的情報を共有するという知的好奇心の旅へと変化しつつあったことを物語っているように思う。p.40-41

 毎年、団体で通過する場合には、宿屋の情報が蓄積され、サービスの悪い宿は外して、サービスの良い宿屋にはチップをはずむといった対応が行われていたようだ。このあたり、宿の善し悪しは大事なんだな。

 幟の絵だけでなく、「物のかたちをことさらにもつくり」杖の先に付けたり、大声で恥ずかしいことを言い囃したり、あるいは手を打ち鳴らしたりするようになった。また若い男たちはもちろん、年老いた男女や、恥ずかしい盛りの若い女性まで、なにもかも忘れてしまったかのように、もの狂おしく見えるのは、世間全体が戯れているようで、謹みを忘れて浅間しいとしか言いようがないと、本居太平には見えた。p.86

 明和のおかげまいりの時の話。エロい絵や物を堂々と付けたり、言葉にしたりしていたという話。カーニバル的な秩序の逆転現象が起きている感じだよな。

 道中日記では、宿屋の記載は丁寧である。多くの場合、「吉野屋利助殿」とか「御本陣川屋源蔵殿」とか、「山本屋文助様」とか、「枡屋茂兵衛方」などのように、屋号と名前を続けて書く。これは宿屋が単に一晩の寝所となるということ以上に、旅人の身元保証の役割をもっていたことと関係しているのかもしれない。p.127

 仲介者としての宿屋。そう言えば、近世は、全国団体みたいのもあったらしいけど。

 街道は、人と自然について、さまざまなことを話しかけてくれる。街道に物語を語らせるのは、旅人しかいない。しかも街道は誰でも歩いて旅ができるようにつくられている。街道が曲がりくねっているのは、必ず町から村へ、村から村へ、丹念に人里をつないでいるからである。回り道に見えるのはちょっとでも人里に立ち寄るからである。街道に峠が多いのは、少しでも早く次の村へ町へつながりたいからである。峠は少し辛いけど頑張れば登れるし。次の人里への最短距離である。とにかく人里と人里をつなぎ、寺や神社の境内を通り、町や村でも人家の玄関前を通るように、街道の仕組みをつくりあげた先人たちの知恵に、心から感謝である。
 街道は人と出会うように仕組まれている。それは旅が歩く人の体力や根性だけで続けられるものではなく、沿道の方々の声援や協力ではじめて可能となることを、昔の人々は知っていたからだ。人と人が触れ合う場こそが街道である。だから、かつて街道は情報の道であった。街道に面して家を建てることは、街道を通して各地の情報と触れ合えるということであり、情報に接することができるという誇りをもっていた。p.184-5

 メディアとしての街道といった感じか。通る人にも迎える人にもメリットがあったと。