森下徹『武士という身分:城下町萩の大名家臣団』

武士という身分―城下町萩の大名家臣団 (歴史文化ライブラリー)

武士という身分―城下町萩の大名家臣団 (歴史文化ライブラリー)

 毛利家の家臣団が集団としてどのように存在していたのかを、「分限帳」や「御仕置帳」、屋敷の位置を示す萩の絵図などといった史料から復元している。なんと言ったらいいのか、18世紀の毛利家家臣団の崩壊ぶりがすごい。大量の家臣が城下町の外に住んでいるとは。ただ、この事例は、毛利家が石高に比べて家臣の数が異常に多かったこと、かなり後々まで在地の知行が重要な位置を占めていたことによる、特殊例なのではないかとも思う。まあ、細川藩あたりでも調べたら、家臣が城下町を離れて、在地で生活再建を行っている可能性はあるのかもしれないが。
 このあたりの大名の家臣団が、少なくとも建前は、軍事集団であるという事を可視的表現したのが大名行列で、そのあたりは根岸茂夫『大名行列を解剖する』を参照するとよい。侍身分の主任務があくまで軍事的奉仕であり、主君の家政や行政周りは小身の者や武家奉公人が担ったというのは、他でも見られる状況だな。


 第一章は家臣団の編成とそれが平和の時代にどのように再編されていったか。家臣団が城や江戸藩邸の藩主を警護する番役や平時の軍役である普請役などを負担する軍事集団であったこと。この軍事集団であるという性格が後々にも「建前」として維持されていったことが指摘される。侍身分の大半は「大組」と呼ばれる6-12組の集団に編成され、戦時には馬乗衆を中心とする彼らが毛利家の軍団の中核を占めた。しかし、17世紀半ば以降は、江戸の藩邸の警護を務める江戸番手に対応するために、小身の家臣も加えられ、平時の編成に変えられていったこと。17世紀の前半に、侍身分の責務の中心が、普請役から番役へとシフトしていったこと。足軽や中間といった武家奉公人は、それらを補完する役割であった。
 第二章は18世紀に入ってからの家臣の窮乏化とそれによる番役の形骸化の状況。それにも関わらず、番役という形を維持しようとした状況を明らかにする。家臣は借財に苦しみ、知行地を返上して食扶持だけを支給される逼塞状態となる「扶持方成」や生活費の節約のため城下町から離れて在地で生活する「在郷住宅」で、番役を務められない家臣が増える。それに対して番役負担の軽減や、各組の増員による組織の「水ぶくれ」の状況が指摘される。「御仕置帳」から判明する奉公人の雇用数が最低限の状況であることも含めて、家臣たちが番役を務められない状況が明らかになる。
 第三章は役所の世界。役所には家老クラスの幹部を除けば、大組の小身衆や無給帳記載の小身の侍、あるいは中間身分の者が主に勤務した。一年ごとに交代する規程になっていたが、実際には特定の人々がローテーションで役職を独占していた状況。彼ら役人や実務を担う中間身分の手子たちが、御用商人と結託して賄賂を取ったり、現金をちょろまかしたり、書類を改竄したりして、私腹を肥やしていた状況が明らかにされる。番方の侍身分が窮乏化する一方で、役方の小身の者や武家奉公人が職務をつうじて蓄財していた状況が明らかになる。
 第四章は城下町の屋敷の配置から見た家臣団の動向。萩は防衛に便利な河口のデルタ地帯に造成されたが、結果として湿地が残存し、十分に家臣に屋敷を配分しきれなかったこと。17世紀半ばの国目付来藩とそれに伴う武家屋敷の整備。一方で、困窮から城下での暮らしを避けようとする家臣の動向が指摘される。また、十分配分できなかった屋敷地を、売買を通して調整しようとした状況。また、窮乏化の中で町人に財政を握られ、屋敷の売買が町人主導で行われ、利殖の手段とされていた状況も指摘されている。このあたりでも、毛利家家臣団の空洞化が指摘される。
 毛利家家臣団が町人や武家奉公人に蚕食され、空洞化していた状況。幕末の倒幕の原動力となった萩藩からは想像もつかない状況が明らかにされる。あと、まとめで大名家臣団が軍事集団であり、領民ににらみを利かせていたと書いているが、武士の「武威」って明確な方向性を持っていたのか疑問に思う。政権のイデオロギーとしての「武威」であって、それは必ずしも領民を押さえるものではなかったのではなかろうか。「武威」が統治の手段だったとしたら、一揆に対する姿勢は不思議としか言いようがないし、浅間山の噴火に伴う一揆ではまともに対応もできていなかったわけで。政権のイデオロギーだからこそ、空洞化しても建前を維持すればよかったのではなかろうか。


 以下、メモ:

 この事実からは、城番をはじめとする番役とは、城に詰めること、火消しに従事すること、じつはそれ自体が目的なのではなくて、家臣団統制の手段たることこそが肝要な意味だったことをみてとれよう。中身はどうであれ、藩主に軍事的な奉仕をおこなっているというかたちそのものが大切であった。だから家臣の状態に番役の体制を追従させるというあり方がとられもしたのだった。
 逆にいえば、たとえどれだけ困窮した状態におかれ、所属の組織が変質しようとも、番役それ自体が廃棄されることはありえなかったことにもなる。軍事的な奉仕、ただそれだけが、かれらの存在を社会に向けてアピールできるものだったからである。p.85-6

 レゾンデートルとしての番役

 そうした動向の一方で、大組を支える存在でしかなかった無給通や中間が、役所で利権化をすすめて地位を独占していた。しかも、かれらの方が、むしろ身分社会の論理に従った行動をするようになっていた。家臣団を全体としてみるとき、中核が空洞化してゆくのと対照的に、周縁部分でこそ身分社会としての成熟がみられたようである。
 官僚制国家の理念がどうであれ、末端の役所や役人の実態がこんなありさまでは、色褪せたものにしか映らないように思えるが、どうだろう。p.147-8

 萩にあった役所に目をやると、統括的な地位には大組の中堅層が就くこともあったが、個々の部署には下級家臣や奉公人クラスが実務担当として配属されていた。ところが、その部分で不正が構造化しており、配属されたものは利権漁りに奔走していた。「東アジア官僚制国家」を体現していると、胸を張っていえる代物ではとうていなかった。p.207

 「東アジア官僚制国家」や「東アジア法文明圏」といった議論に関連しての議論らしい。著者が「官僚制」というものにどういうイメージを持っているか知らないが、前近代の「官僚制」ってのは、縁故主義・腐敗の構造化ってのは基本的な要素だと思うが。中国の官僚が腐敗で有名なことは今昔変わらないし、ヨーロッパの絶対王政の官僚制にしても縁故採用・収益の私物化は基本構造に組み込まれていたわけで。上役が名誉職的なもので、実務官僚が力を持つというのも、実際洋の東西で共通するところがあるし、萩藩の利権化した官僚制が、「東アジア官僚制国家」や「東アジア法文明圏」といった議論を否定する論拠にはなりえないように思うが。

 中核をこうした組織が占めていたことは軽視されるべきではない。そこからすれば、家臣団は全体としても軍事組織としての性格を強く保持していたというべきであろう。武士の役目を、何か公共的な負担のようにいい、さらにそこから武士と領民が平和裡に共存していたかのように説明するのは、支配の側からするイデオロギーでしかないはずである。
 武士の集団とは、あくまで武威によって睨みをきかせるものだった。領民にとっても、家臣団といえば、なにより戦闘者の集団と映っていただろう。武士と民衆の関係を考えるうえで、その事実はゆるがせにはできない。p.206

 どうだろう。「武威」というのが、幕藩体制の基本的要素であり、そもそも征夷大将軍という地位を支えるものだったことは確かだろう。一方で、それが民衆にどこまで向けられていたかは疑問。むしろ、「武威」は虚空というか、形而上的な方向に向けられていたのではないかという感じもするし。実際の領国統治が村請制という民間丸投げ的なものだったり、官僚制度の中で民生がごく小さな部分でしかないところを見れば、武士身分は内部で閉じていたように見える。むしろ、「武威」というのは武士身分を形づくる殻でしかなかったのではなかろうか。