本康宏史『軍都の慰霊空間:国民統合と戦死者たち』

軍都の慰霊空間―国民統合と戦死者たち

軍都の慰霊空間―国民統合と戦死者たち

 第九師団の根拠地だった金沢市を題材に、戦死者の祭祀とそれが地域や民俗社会に与えた影響を論じている。ただ、切れ切れに読んだせいか、全体的な流れが頭に入っていない感じが。あと、第一部の「軍都」の都市空間の話と、二部三部の慰霊空間や民俗社会の変容の部分と、いまいちきっちり繋がっていない感じも。
 第一部は、「軍都」の都市空間に対する軍事施設の影響を、師団司令部が設置された都市を比較して議論している。熊本だ、熊本城や花畑屋敷など肥後藩の施設があった土地を軍隊用に転用している。このあたり、最初に鎮台が置かれた都市では、だいたい共通のようだ。その後の対ロ戦争をにらんだ師団増設、その後の師団増設と時代が新しくなるほど、藩政時代の城の利用がなくなり、郊外に立地する状況が指摘される。まあ、明治も末ごろになれば、中心部は何らかの形で利用されているだろうし、戦争の近代化で軍隊にとっても窮屈になっていただろうし、当然と言えば当然の展開。
 第二部は慰霊の空間の展開。明治初年、藩政の最末期に、戊辰戦争の戦死者を弔うために、金沢市街の北東卯辰山に招魂社が建設される。しかし、明治末年には、毎年の招魂祭は兼六園や市中心部の演習場といった金沢市の中心部で、祝祭的な余興を含む催しに変遷する。兼六園への日本武尊銅像による明治紀念標の設置と、それが天皇制の視覚化といった側面を持つという指摘。昭和7年の招魂社の金沢市中心部への移転と昭和十四年の護国神社制度の創設の背景へと論を進めている。招魂社の移転が半官製の運動によって行われた事、その背景として満州事変以降の総動員体制の中で招魂社の空間の国威発揚・国民統合のための顕彰空間としの利用が強まり、結果として狭小敷地・郊外に存在していては、国家の必要性に対応できなくなったことが指摘される。さらに、招魂社から護国神社への転換は、日中戦争による軍事動員のために利用されることになったためと指摘される。敗戦後は、忠魂碑や忠霊塔はGHQの指令によって撤去されたが、護国神社に関しては、朝鮮戦争以後の冷戦の激化に伴い、廃止されることなく温存された状況。もともと慰霊・宗教的空間であった場所から国家の必要による都市中心部への移転、さらに招魂祭の祝祭空間の排除は、実際には戦死者信仰を弱めたんじゃないかと思った。現在でも、護国神社って普通の時には人もまばらで、寒々とした空間だったりすることが多いからなあ。実は、「信仰の場」としては、かなり未熟なんじゃないかと思った。
 第三部は慰霊の場にたいする都市住民の宗教的な空間認識の検討。野田山の陸軍墓地卯辰山の忠霊堂の建設運動をまとめ、金沢では卯辰山が「再生」の場として、野田山が葬送の場として伝統的に認識されてきたこと。民衆の宗教的な意識を、最初は国家側が利用したこと。弾よけや戦死・徴兵逃れの祈願が行われる神社や寺の存在が指摘される。しかし、後には戦時体制への移行の中で民衆の信仰が圧殺される状況が指摘される。旧来の神社を押しのけて護国神社が立地する事例が何件か紹介されている。この点では、熊本の藤崎宮も、一例に入るだろうな。西南戦争のどさくさにまぎれて、肥後一の宮を追い出して軍用地にする。どうも、現在の護国神社が現在地に立地したのは現在のことのようだが、藤崎宮の旧境内に護国神社が移転してきている。戦後、藤崎宮の旧境内復帰って話は出なかったのかね。
 あとは、招魂社/護国神社制度が、第二次世界大戦中に慰霊から国家の顕彰への場へと変質をしていったという歴史の流れ、それは現在の靖国神社が戦死者の慰霊の場としてふさわしいかという問題にもつながる問題だろう。現在も、靖国がむしろ戦死者の追悼を利用して、国家の顕彰を行っている状況を考えると、やはり閣僚の靖国参拝第二次世界大戦の追悼施設が靖国神社しかないという状況をいびつであると言わざるを得ないと思う。


 あとは、金沢の宗教的な空間認識と陸軍墓地の立地の関連性は興味深いな。熊本では、立田山のふもとの小峰墓地と熊本駅の西の花岡山の二ヶ所に陸軍墓地が立地しているが、これらにも宗教的な空間認識が影響しているのかもしれないな。私自身は東部の新興住宅地の住人であるため、どうもそのあたりの空間認識がよくわからないのだが。どちらも、至近に細川家の菩提寺が存在したというのは、ちょっと注意すべきかな。少なくとも、花岡山の方は、麓に寺院が密集し、熊本バンドの結成が行われたように、何らかの宗教的な意味のある空間であったとは言えようし。


 以下、メモ:

 かくして、四年八月十八日には、城地は兵部省の所轄となる(「官報」)。ついで、五年二月二十七日、兵部省陸軍省と変わり、不要な建造物は順次破壊されていった(『稿本金沢市史』市街編)。その後の名古屋鎮台分営所・歩兵第七連隊の設置はすでにふれたとおりである。なお司令部は、いずれも旧城二ノ丸跡に置かれ、入り口の門は西町の甚右衛門坂辺り(北側)に設けられた。また、二ノ丸広式は病院となり、のち衛戍病院として城内から小立野の旧奥村邸に移転した。二ノ丸の病院跡は将校の集会所に充てられたという。また、大手門裏の新丸にに位置した越後屋敷・作事所・割場・会所は取り払われ、第一大隊の兵営が新築された。二ノ丸の各部屋、五十間長屋も兵舎等に改築された。このようにして近世城郭を構成して来た建造物が急速に壊され、逆に、近代的な軍隊の施設に取って代わられるありさまは、まさに金沢城の景観を大きく変貌させるものであった。p.61

 熊本城も大きな改変を受けたのは確かなんだけど、東半分はむしろ軍隊用地になって保存された感があるな。旧藩時代からの櫓が生き残っているし。

 とりわけ同「永続講」の結成は、「悪疫に斃れ敵弾に死する者」を眼前にイメージして、「講」という「真宗王国」石川にあっては、極めて(地域住民が了解しやすい)身近な形態をとりつつ、内実は「国民たる者」として、「満腔の誠意を尽くして最も盛大なる祭典」を行うべく求めているのである。それにしても、本来神道的な色彩の強い招魂祭の運営を、仏教的な「講」の組織化で実施しようとするところに、この地域の特色が現れていてその点でも興味深いものといえよう。p.118

 招魂祭の運営を「招魂祭永続講」という「講」を使って維持しようとするというのがおもしろい。

 一方、紀念碑の前での戦死者の鎮魂儀式が、神道と仏教の両方で執行されたことも注目される事象といえよう。もともと、建立の際には、浄土真宗の大谷光尊をはじめ、各宗派の僧侶や神職が来会して、霊を弔い、盛大な供養が六日間つづけられたのだが、のちに招魂祭という神道的な慰霊儀式が紀念碑の前でも開催されるようになると、仏教的な儀式と神道的な儀式が並行して開催されるようになった。ここに示されるのは、戦没者慰霊の汎宗教的在り方に加え、鎮魂の形式よりも、むしろどのような場所でそれが行われるのかが問題だったのである。この問題について羽賀氏は、愛知県下の事例から、「鎮魂のための社と石碑、それは街に生活する人々を眺める場所、人々のにぎわいと休息」「郷土の自然に包まれた日常生活にもっとも身近な場所のなかに配置されたのである」と指摘しているが、金沢兼六園における明治紀念碑の性格は、まさにその要件を満たす「慰霊空間」の代表といえよう。p.170

 仏式と神式の併存。

 しかし、このような内務省当局の考え方は、一方で、それぞれの出身者の英霊を氏神なり産土社境内に祀りたいという、地域の実情(民衆意識)とはかならずしも一致するものではなかった。例えば、官幣社生田神社の宮司加藤金綾次郎は、「一府県に一招魂社であったら、その招魂社を常に拝することができる地方は良いが、さうでないところは社会教化に利するところが少ない」と主張、こうした意見に代表される地方神職の心情が事実存在したことをうかがわせた。また、こうした議論の延長として、「各府県一社宛と、更に各町村には鎮守社の境内社として建設し、各町村出身者の英霊を奉祀し」てはどうか、などというような折衷的意見もみられたのである。p.230

 招魂社を一府県に一つに集約し統制を強めようとする内務省と民衆の宗教感情の乖離。

 ここにおいては、もはや護国神社は単に招魂祭を執行する「慰霊空間」としての役割を完全に脱皮して、戦争遂行のための戦意高揚の一大キャンペーンの場と化していいたのであった。かつて内務省神社局の官僚は、「招魂社」から「護国神社」への「改称」は、単なる呼称の変更にすぎないと強調したが、ここに至って、この「改称」に象徴されたものは、いわゆる戦没者の「慰霊」行為に属するところの招魂祭のみならず、祈願・決意・宣伝・奉祝等々、戦争遂行のいかなる局面にも対応し得る施設、すなわち、広く国家神道と槓樌とした民衆動員の総合的な「顕彰空間」としての護国神社に位置づける道を開く契機でもあったことが、明らかにされたのである。この意味で、太平洋戦争開戦時における護国神社を中核とした県民の「祈願」の諸相は、前々年に整備を完了した「護国神社」制度が、その意図された役割をも越える機能を、もののみごとに果たした光景といえよう。p.242-3

 護国神社への「改称」の意味。

 興徳寺の清正公は、戦国武将加藤清正を祀ったもので、清正が大の法華経信者であったため法華経の守護神と崇められるに至った。いうまでもなく武勇絶倫の伝承があり、武勇の神、武運の神として広く信仰された。軍人の妻子や兄弟姉妹の参拝祈願者が多く、特に昭和七年(一九三二)の上海事変や同十年日中戦争時の外山部隊の渡満に際して武運長久を祈願するものが増加したようである。p.327

 清正公信仰に関しては、最近本が出たな。

 さらに参拝の対象も、日露戦争時には金沢でも藩政期以来の伝統である五社(田井椿原天満宮、安江鍛冶八幡宮、野町神明宮、卯辰八幡宮、山ノ上春日社)をはじめとした地域の産土神への参拝が基本となっていたが、太平洋戦争時では、圧倒的に石川護国神社へのそれが多い。こうした過程は、個人の主体性をしだいに規制していく反面、全体性を強調し、顕彰=鼓舞という側面を前面に打ち出す形で組織化され、強化されてくるようにみえてならないのである。p.339

 国家への統合に収斂していく状況。