木本雅康『古代の道路事情』

古代の道路事情 (歴史文化ライブラリー)

古代の道路事情 (歴史文化ライブラリー)

 歴史地理学の立場から、古代の駅路・伝路といった官道について全般的に概括している本。字図や現在の道路など地図上の痕跡を追跡する歴史地理学の方法で、意外と古代の官道を復元できるというのが興味深い。実際に掘ってみると、遺構が出てくるのだから、あとあと大地に痕跡が残るんだな。
 駅路が天智朝の7世紀後半に整備されたのに対し、国府や郡の設定、条里制などは後から整備され、先行する駅路が基準線とされたという指摘が興味深い。後は、駅家の状況、実際の復元の事例が武蔵国肥前の島原の二例紹介され、最後はもう一つの官道である「伝路」について紹介が続く。郡衙郡衙をつなぐルートとして整備されたとおぼしきもので、研究史も紹介されているが、「伝路」という概念そのものが、なんというか生煮え感が強いように思う。風土記には「通道」「道度」「駅路」と三重構造で表記されているとあるが、それが現在の概念上の「伝路」「伝馬路」「駅路」にきっちり対応するかどうか疑問があるのだが。
 エピローグは古代の官道をどうとらえるかの話。最初に象徴空間としての官道としての見方を紹介し、後では実用道路として利用されてきたのではないかという研究を紹介する。どちらの側面もあるのだろうとは思えるが、広くてまっすぐな道というのが、古代国家の力量をデモンストレートする装置であったのは確かだろうなと。183ページで松尾光の地元の抵抗を排して、巨大な道路を全国に張り巡らせた的な見方を紹介しているけど、この手の巨大公共事業は在地の有力者層を取り込んで、反対給付を行っているのではないかなと。もともとの集落なんかを無視して造っているということは、逆に言えば、新規の土地の開拓といった意味合いもあっただろうし。


 以下、メモ:

 ところで、これまで取り上げてきた都城国府・郡家・郡寺・国分寺・国境・郡界・条理などは、いずれも計画道の開設より遅れて、むしろそれを基準線として設定されたと推測される。いわば「初めに道ありき」なのである。それに対し、古代山城は、計画道とほぼ同時に設定された可能性が高く、古代道路の軍用的性格がうかがえる。このあたりに、駅路の成立を解く一つの鍵がひそんでいるように思われるのである。p.60

 他制度に先行した駅路。そして、その軍用道路としての機能。

 ところで、このような象徴論的アプローチについては、すでに千田稔氏が都城(給都)にたいして試みたものである(『宮都の風光』角川書店、一九九〇年)。千田氏は、なぜ八世紀代の日本においては、同時代の中国に存在しない遷都という行為が、莫大な財政と労働力を投入して、何度もおこななわれたかということを問題にした。そして、インドネシアのバリ島におけるヌガラの祭儀を検討した、文化人類学者C・ギアーツの〈劇場国家論〉を援用することによって、遷都は、何かの政治目的のためにおこなわれるのではなく、それ自体が一種の演劇であって、都を常に新しく蘇らせて造ること自体に意味があるとした。すなわち、日本の都城のオリジナルは中国にあり、それに類似するものを日本という土地に造ること自体に、日本のアイデンティティの表現がある。したがって、都城は旧態依然のものであってはならず、つねに新しく造り変え、造りつつあることによって、国家としての精神的な安定感をも獲得できたとする。
 そして、唐の都長安が、白楽天の詩に「断岸の如し」とうたわれた壮大な羅城で囲まれているのにたいし、日本の都城には、城壁のような堅固な羅城が存在しないことについて、日本の場合は島国で、外敵の侵入を受けにくく、シンボリックなものでことたりていたのであろうとする。このような日本の都城の特徴を、千田氏は〈正面性〉(ファサード)という言葉で表現している。うなわち、人目につくところを整えるという意味で、たとえば平城京の場合、朱雀大路の周辺をことさら華美にしたてあげ、形式的な面に力点を置こうとしている。p.189-190

 祭のしての遷都って感じだな。蕩尽の儀礼というか。