森公章『古代豪族と武士の誕生』

古代豪族と武士の誕生 (歴史文化ライブラリー)

古代豪族と武士の誕生 (歴史文化ライブラリー)

 5世紀以降の王権の成長と地域の豪族との関係を、12世紀の武士の誕生の時期まで追った研究。なんというか、情報がギュッと押し詰まっていて、全体を把握できていない。あと、意外と古代の文字史料って豊富にあるんだなというのも意外な発見。各地で発掘される木簡が古代の社会を復元する上で、どれだけ貢献しているか。一方で、断片的な情報を広く再構成するには、慣れが必要だろうなとも。
 5世紀の倭の五王時代には、中国からの将軍号の授与が統治の正当性を確保する上で重要だったこと。出土した刀剣の銘文から、職能に人を付けた人制で、その奉仕は代替わりごとに確認される不安定なものだったこと。各地の勢力が独自に大陸と交通してさまざまな権益を得ていたことが、独立性の基盤にあったことを指摘する。
 6世紀に入ると、朝鮮半島の国家の統合が進み、それに伴って交通のチャンネルが減少し、王権の優位が確定していく。また、各地に屯倉の設置、部民の設定が行われ、中央の有力豪族を間に挟んだ、奉仕関係が形成される。
 600年の遣隋使以降、それまでの中央集権制度から、新たに中国の制度を取り入れた中央集権が進められる。評制・郡制の導入、一方で律令の郡司制度は地域の豪族の地域支配を前提とした制度となっていたこと。郡司も国造など、従来からの豪族層が任じられたこと。戸籍や経典の跋語をもとにした地域の権力編成が興味深い。そのような、郡司の支配は、国司の地域統治の権限の拡大、受領個人が納税の責任を負う体制に変化していくなかで変化していく。国衙への取り込みの過程。
 最後は、武士の成長のなかで、古代豪族がどうなっていくかを展望する。中央から王族や貴族の関係者が土着し、武士団が形成成長していく。その中で、郡司を務めてきた氏族は、これら新来者との融合、あるいは軍事貴族層の郎党となっていく状況、あるいは古代の氏族が名前を変えつつ存続していく状況が展望される。
 興味深いが、もう一度読み直す必要がありそう。


 以下、メモ:

 館の実態は不明の部分が残るが、必ずしも郡家に付属されていたのではなく、郡内の別の場所に所在した可能性も考えられる。いわば郡家出先機関であり、こうした分散性は正倉にも該当し、正倉は郡家付近に一括して設置される場合と、郡内のいくつかの郷に分散して置かれている例もあった(『出雲国風土記』を参照)。こうした特徴は上述の郡的世界や郡雑任の出自などに監修される。郡内の重層的な勢力図や政治的関係に規定された側面を反映している。館は厨家または厩が付設されており、宿屋を中心とした宿泊機能を主とするもので、食事の供給や交通上の役割が想定できる。厨は郡家の給食機能を支える施設になる。p.125

 歴史的経緯によって、地域によって状況は千差万別だったという話や、郡内の社会関係が重層的なものであったという話。

 これまで述べてきたように、律令制的国郡支配では、郡・郡司の役割が大きかった。国司の重要な任務である地方からの貢進物の京上、中央政府を支える租税の徴収に関しても、郡司に依存する部分が多い。律令的租税制度は戸籍による人民の把握と成年男子を中心とするさまざまな租税の貢納・労働力の徴発に依拠しており、形の上では個別人身支配、一人一人が租税を出すことになっている。しかし、例えば調として塩を出す若狭国、堅魚を出す伊豆国では、荷札木簡の知見によると、山間部の住民も塩や堅魚を貢納している躰だった。これは実際には郡家に何らかの貢納や労働力を提供し、郡段階で個別貢納の形を整えたものと解され、郡司・郡家の機能が力を発揮したことがわかる。p.150

 戸籍制度が擬制であること、これを調整するために郡司が重要であったということ。