川岡勉『山城国一揆と戦国社会』

山城国一揆と戦国社会 (歴史文化ライブラリー)

山城国一揆と戦国社会 (歴史文化ライブラリー)

 応仁の乱後の、1485年から8年間にわたって山城国南部を支配した山城国一揆を検証した本。従来の権門の荘園や被官関係を通じて統治されていた山城は、応仁の乱による全国支配の弛緩によって幕府の経済基盤として重要になる。その手段としての守護制度の強化に対して、国人層との軋轢が高まる。また、山城国の守護、畠山家の内部対立から、山城は長期にわたって周辺地域から軍勢が入って、対立する場となっていた。この中で、1485年に地域の国人による一揆が、対立する畠山氏の両勢力を退去させ、国掟を制定し、南山城三郡の支配を掌握する。同法が両畠山の勢力による治安の回復、寺社本所領の回復、新関の撤廃といった、幕府や権門から歓迎される要求を掲げたため、即座に弾圧されずに生き残ったと指摘する。また、守護の権限を継承する形で、南山城の治安やさまざまな紛争の解決に当った。1492年の明応の政変で、状況は一転する。守護権の再建がはかられ、大和の古市氏などの攻撃で、解体消滅していくことになる。
 研究史を最後に置いたのが、興味深い。一般向けの書物で、研究史を取り上げること自体が珍しいが、確かに取り扱うならここに入れられるのが正解だろうな。階級制度や封建制度などの観点から、山城国一揆は取り上げられるようになったが、その後は惣国一揆論や地域社会論の観点から論じられるようになったという流れが整理されている。最終的には、「惣国一揆」論そのものの有効性への疑問、国人たちの主体性の重要性を指摘してしめくくっている。また、庶民はあまりかかわりなく、領主である国人層の主導性も強調される。
 とりあえず、応仁の乱以降の、関西地域の政治状況が混沌とした状況であったことは印象的。あと、「領主」としての国人が、地域の社会や地理状況の中で、どのように存在していたかが、本書ではいまいちわかりにくいところに、隔靴掻痒感がある。


 本書の最初は地理的な条件の紹介になって、気になって地図を調べてみたんだけど、あのあたりむちゃくちゃ良いな。京都にいた頃に、行っておけばよかった。ストリートビューで、木津川の北岸の茶問屋ストリートから上狛環濠集落まで、旧奈良街道をたどったが、いい雰囲気だった。


 以下、メモ:
 十五世紀半ば以降、諸国では幕府が守護に国成敗権を委ねるようになり、国人の守護への被官化が一元的に展開していくのに対して、京都周辺では国人たちが特定の主人の配下に結集していくような動きは認めにくい。京郊の西岡は細川京兆家の被官人が多かった地域として知られているが、野田泰三によれば西岡国人の動向は変転極まりなく、一対一の強固な被官関係はみられないという(野田「西岡国人土豪と三好氏」)。野田はそこに荘園本所や幕府の支配が強固に残る京郊地域の特殊性を見いだし、それを克服して一元的な被官関係を構築しえなかった点に細川氏権力の限界を指摘している。p.194