安丸良夫『神々の明治維新:神仏分離と廃仏毀釈』

神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)

神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)

 おもしろかったが、明治初年の国家神道の動きというのは一から十まで胸糞悪いので、読み進めない。村上重良の『慰霊と招魂:靖国の思想』の後から読みだしたから、都合一月半かかっている。まあ、途中、ひと月以上放置していたせいもあるのだが。とりあえず、明治初年の国家神道廃仏毀釈関係は、読んでも気分が悪くなるだけなので、手出しを控える方向で。
 内容としては、国学系の神道の導入によって、いかに日本の住民の宗教世界や規範が再編されたかを、詳細に追っている。維新の内戦前後から、「国体神学」が政治の中心的位置に躍り出、天皇の権威を背景に強権的に広げようとした状況。啓蒙的な「国民の教導」を狙い、民俗宗教などの習俗への抑圧が行われたこと。廃仏毀釈の動きの中で、独自の宗教生活をもっていた浄土真宗がよく対抗しえたこと。廃仏毀釈が盛んな地域で、他の宗派の僧侶があっさり還俗したのに対し、浄土真宗が信徒組織を維持し続け、嵐が去った後に復活しえた、宗教的生命力が興味深い。
 「神道国教主義」は明治10年代には、「信教の自由」を求める主張や仏教側の巻き返しのなかで、後退していく。これは、明治憲法の制定によって、公式化される。しかし、この「日本型」の信教の自由は、結局はナショナリズム天皇を至上とする国体の存在を前提とすることを承認することを条件として許されたものにすぎなかった。「神道国教主義」そのものは後退したものの、日本の宗教生活は、それに合わせた再編を余儀なくされたことが指摘される。
 このような、啓蒙主義による宗教世界の再編は、勉強していないのでよく分からないけど、フランスではヴァンデの反乱などをつうじて暴力的に行われ、また、山之内克子の『ハプスブルクの文化革命』で紹介されたように東欧でも行われたが、それと比較することは可能だな。
 神道国教主義の形成時に、浦上のキリシタンの根強い抵抗が、キリスト教の侵入を防ぐ必要性を宗教関係者に痛感させたことなど、様々な歴史的な出来事が、政策形成に影響した状況などは興味深かった。


 以下、メモ:

 割りきっていえば、本書は、神仏分離廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれた、と主張するものである。もちろん、この転換は、明治初年の数年間だけでなしとげられたものではなく、その前史と後史とをもっている。しかし、神仏分離廃仏毀釈を画期とし、またそこに集約されて、巨大な転換が生まれ、それがやがて多様な形態で定着していった、そしてそのことが現代の私たちの精神のありようをも規定している――本書はそうした視角に立っている。p.1-2

 廃仏毀釈の後々の精神的影響が本書のテーマであると。

 いうまでもなく、こうした国体神学の台頭には、水戸学や工期国学につちかわれた歴史があった。しかし、一般的な国体観念や尊王観念はともかくとして、神仏分離神道国教化政策をささえたような観念が、尊王攘夷運動や倒幕運動のなかに具体的内実をともなうものとして共有されていたのではなかった。そうした国体神学の信奉者たちもたしかに存在はしていたが、彼らは幕末の政治過程では傍流を占めていたにすぎなかった。ところが、新政府が成立すると、彼らは、新政府の中枢をにぎった薩長倒幕派によってそのイデオローグとして登用され、歴史の表舞台に立つことになったのであった。薩長倒幕派は、幼い天子を擁して政権を壟断するものと非難されており、この非難に対抗して新政権の権威を確立するためには、天皇の神権的絶対性がなによりも強調されねばならなかったが、国体神学にわりあてられたのは、その理論的な根拠づけであった。p.3-4

 政権の弱体さというのが、後々にものすごい影響を与えているんだな。

しかし、この後退は、国体神学の教説がその個々の教条を離れて、多様な媒介性を介して日本人の精神に内面化されるということによってあがなわれた。だから、明治初年の神仏分離廃仏毀釈神道国教化政策をもって、一部の狂信家たちの無謀な試み→失敗と見ることはできない。一見そのように見える要素を含みながらも、じつは日本人の宗教生活の全体が、それを媒介にしてすっかり転換してしまったのである。
 神仏分離廃仏毀釈という言葉は、こうした転換をあらわすうえで、あまり的確な用語ではない。神仏分離といえば、すでに存在していた神々を仏から分離することのように聞こえるが、ここで分離され奉斎されるのは、記紀神話延喜式神名帳によって権威づけられた特定の神々であって、神々一般ではない。廃仏毀釈といえば、廃滅の対象は仏のように聞こえる、しかし、現実に廃滅の対象となったのは、国家によって権威づけられない神仏のすべてである。記紀神話延喜式神名帳に記された神々に、歴代の天皇南北朝の功臣などを加え、要するに、神話的にも歴史的にも皇統と国家の功臣とを神として祀り、村々の産土社をその底辺に配し、それ以外の多様な神仏とのあいだに国家の意思で絶対的な分割線をひいてしまうことが、そこで目指されたことであった。
 神仏についての多様な信仰は、存続しつづけようとするかぎり、こうした分割をなんらかの意味でうけいれ、むしろすすんで内面化してゆかねばならなかった。明治四(一八七一)年の東本願寺の上奏文案に、
 我宗ニ崇ムル所ノ本尊ハ弥陀如来ト申テ、乍恐皇国天祖ノ尊ト同体異名ニシテ、智慧ヨリ現レテハ天ノ御中主尊ト称シ奉リ、慈悲ヨリ現レテハ弥陀如来ト申シ候。
とあるのは、今日からいかに滑稽に見えるにしろ、けっして例外的な諂諛の言葉ではなかった。むしろ、のちにのべるように、真宗はその宗教としての独自性をもっともよく守り、真宗の存在こそが神道国教主義的な宗教政策を失敗させる根拠となったのだが、しかし、その真宗でさえ、国家のさしだす神々の体系にほとんど破廉恥に身をすりよせていったこともあったのである。p.6-7

 中世以来の宗教実践の歴史を無視した行動なんだよな、廃仏毀釈ってのは。記紀神話の神々にどこまで生命力があるのか。最近、神社の解説板なんかで紹介されている祭神が全然信用できないんだよな。

 今日、私たち日本人の大部分は、宗教とはあまりかかわりのない実利的世俗的な生活様式と生活意識とをもっている。ところが、この実利性と世俗性の反面で、正月の初詣に神社に参詣する日本人は七千万人近いといわれ、旧い世代よりもいっそう脱宗教的に見える若者たちも、結婚式はたいがい神式でおこなっている。日常的には神社崇拝とほとんど無縁な私たちであるが、元旦や結婚式や家屋の新築などに関しては、神社神道の世話にならないと、どこかおさまりが悪く、内心におちつきと安らぎがえられないらしい。p.10

 確かに初詣と地鎮祭は神式か。結婚式はキリスト教式に乗っ取られた感じだな。このあたり、神式の定着性の低さをうかがわせる。地鎮祭の類も、近世にはどのような祭式で行われていたのだろうか。

 ところで、こうした淫祠整理は、そこで否定の対象とされている民俗信仰的な側面こそ、民衆の現実の宗教生活のもっともいきいきとした側面なのだから、民衆の不安と恐怖をよびおこすことになった。この問題は、改革を推進した村田清風においても、山村に祀られている大山祇命、大浦の大歳神、畑のなかの稲荷、新開地の竜神、牛馬の守り神としての赤崎大明神や素戔鳴命など、民生に「功徳」ある鬼神は、正祀として祀るべきではないだろうかという疑問として意識されていた(沖本常吉編『幕末淫祠論叢』)。p.40

 こうして日本の宗教は生命を失っていったと。

 こうした傾向のごく一般的な背景は、水戸学や後期国学に由来する国体論や復古思想が、幕末維新期の対外的危機のなかで、そうした状況に対応する危機意識の表出として、誰もが公然とは反対しにくい正統性をすでに獲得していたことにあったろう。しかし、神祇官復興や祭政一致のような復古の幻想に本当に心を奪われていたのは、倒幕派諸勢力のなかでも周辺的な人々にすぎなかった。彼らの主張が維新政権の政策のなかにとりいれられ、神祇事務局→神祇官を中心に、彼らが政権内部に地歩を占めえたのは、はじめは、岩倉‐薩摩閥の、ついで木戸孝允長州閥の支援によるものであり、むしろ彼らの地位そのものが、岩倉、大久保、木戸などの政治的ヘゲモニーの一部を形成していた。p.47

 この種のイデオロギーが幕末明治初年に、きわめて政治的利用しやすいイデオロギーだったのだな。で、実際に利用されたと。

 ここには、権力へのあからさまな対抗は語られていない。しかし、明治元年の廃合寺以来、真宗の寺檀は、基本的にはその信仰組織を守り通したのである。時の権力には随順するほかないと知りつつ、しかし、しなやかで強靭な抵抗の姿勢がつらぬけれている、といえよう。こうした文書を残すところに、一寺一檀も脱落させまいとするつよい意思が感じられる。権力への屈従の仮面のしたでのしたたかさ。そこに日本の民衆の権力観の重要な一面を読みとることができようか。p.97

 浄土真宗の抵抗力。このあたりの独自の性格が興味深い。「近代性」ともいえるだろうが。誓約書で骨抜きとか、対応策が興味深い。

第四に、廃仏毀釈は、その内容からいえば、民衆の宗教生活を葬儀と祖霊祭祀にほぼ一元化し、それを総括するものとしての産土社と国家的諸大社の信仰をその上におき、それ以外の宗教的諸次元を乱暴に圧殺しようとするものだった。ところが、葬儀と祖霊祭祀は、いかに重要とはいえ、民衆の宗教生活の一側面にすぎないのだから、廃仏毀釈にこめられていたこうした独断は、さまざなの矛盾や混乱を生むもとになった。そして、こうした単純化が強行されれば、人々の信仰心そのものの衰滅や道義心の衰退をひきおこす結果になりやすかった。ここに仏教が民衆教化の実績をふまえて、その存在価値を再浮上させてくる根拠があろうし、さらにもっとのちまでの見通しとしては、キリスト教や民衆宗教が活発に活動する分野が存在していたことも理解できよう。
 明治政府の指導者が確保したいのは、天皇を中心とする新しい民族国家への国民的忠誠心であり、国学者神道家の祭政一致思想や復古神道的な教説は、わりきっていえば、そのためのイデオロギー的手段として採用されたのであったから、国民的忠誠心を有効に確保してくれそうなどんなイデオロギーも、新政府と結びつきうる可能性があった。だから、国民の宗教生活に長い伝統をもつ仏教には、国民的忠誠心の確保という焦眉の課題についてのみずからの有効性を証明してみせることによって、その再生の道が拓けてくるはずであった。p.117-8

 外部から信仰を破壊すれば、そりゃ宗教心全般が減退するわな。そもそも、葬儀と祖霊祭祀に限定するあたりに、宗教に対する洞察の浅さだよなあ。
 現在、日本社会の表面から宗教が見えないのも、ひとつには、この時代の宗教政策の影響かもな。

 こうして、村毎に一村一社を原則とする村氏神=村社がおかれ、区毎に郷社をおいてその区の村社は郷社の附属とし、この郷村社が地域の宗教体系の中核をなすことになった。郷村社は、祖霊崇拝から皇祖神崇拝へと連環している壮大な祭祀体系の組織単位のような位置を占めていた。だから、一村一社を原則とする村氏神の成立は、一方でそれ以外の雑多な神仏を排除するとともに、他方で国家がさしだす神々の体系を需要する受け皿でなければならなかった。p.132

ところで、伊勢神宮を頂点とする国家的祭祀の体系を地域の宗教生活の中核にもちこむことは、その対極にいた土俗的な神仏の抑圧と没落とを意味していた。だが、そのさい、土俗的な神仏は、対等の敵手として抑圧されたのではなく、迷信や呪術として抑圧されたのであった。そのため、右の過程には、たとえば産穢忌憚の停止、女人結界の廃止、僧侶の蓄髪・妻帯の自由などの啓蒙的改革もあいともなっており、それはさらに、裸体・肌ぬぎ・男女混浴・春画・性具・刺青の禁止などの風俗改良にもつらなっていた(次章)。p.137

 新政府の諸政策への不満が、宗教形態をとって人々の耳目を驚かすほどの事件となることは少なかったが、しかし、漠然とした不安やうまく表現されてゆかない動揺・恐れの意識は、この時代には、むしろ一般的なものであったろう。天変がおこり、世界が泥海になるというつぎのような流言は、こうした雰囲気のなかで生まれたのであろう。この流言で人々を惑わしているのは、「筮者、浮屠者流、或ハ山伏・富士・御岳講ナド」だろうというのも、あらたな啓蒙と祭祀の体系がなにに対抗していたかを的確に表現しているといえよう。p.141

 この神道化の強要は、厳密にいえば、神仏分離でも廃仏毀釈でもないだろう。というのは、神仏分離廃仏毀釈には、神仏の混淆状態が前提せられているのに、こうした神道化の強要にさいしては、外からまったく別の神格がもちこまれて、旧来の信仰が否定されてしまったのだから。それは一山横領というほかないものであったが、こうした動向は、明治四、五年以降、明治政府が極端な排仏政策を改め、一般的な政策基調も開明的方向に転じた時期に、かえって顕著になってくるのである。
 だが、神祇官教部省などの国体神学と合致しないのは、蔵王権現や仙元大菩薩などの信仰だけではなかった。神社信仰の系統のものさえ、その内実をたずねるなら、国体神学に一致しないことが多かったといえよう。その一例を東京の神田神社に求めてみよう。p.160

 神仏分離廃仏毀釈が、単に神と仏に分けるものにとどまらず、記紀神話などで正統化された神々への差し替えであったこと。結果として、民俗信仰の対象になっているような神様は、排除されたと。
 神田明神も、天皇の参拝対象が平将門では都合が悪いと、祭神を将門から少彦名命に差し替えたという話が、最後の後に紹介されている。本当に信仰の対象とかは、どうでも良かったんだなという感じで。将門が神田明神に復帰したのは割合最近であったというのも、根が深いやね。

ニューモードの天皇
 こうした宮中改革が進められるなかで、天皇自身が、江戸時代の天皇とはまったく異なった活動的な君主へと生まれかわりつつあった。たとえば、天皇が早くから好んだものに乗馬があったが、四年末から、天皇も皇后も牛乳をのみ、獣肉をたべるようになり、ついで西洋料理の晩餐会を楽しむようになった。五年四月、横浜から外国人裁縫師を召して洋服をつくるために天皇のからだをはからせ、天皇は洋服を着て椅子にかけた生活をするようになった。宮中には靴をはいてはいることになり、侍従なども椅子にかけ、廊下には絨毯がしかれた。五年五月、天皇は大阪および中国・九州地方の巡幸に出発したが、そのさい、天皇は燕尾形ホック掛の正服を着、騎馬で進んだ。供奉の官員も燕尾服に洋刀を帯していた。これは、ニューモードの天皇が民衆の前に姿をあらわした最初の機会で、天皇や官員の制服の基本はここに定められた。p.138-9

 そもそも、日本の右翼に歴史性が存在しないのは、その中核たる近代天皇制が最初から伝統を否定した存在だからなのかね。

氏神の整備
 以上の列挙は、『神社廻見記録』から特異な事例を選んだものではない。神仏分離にさきだって、この地方の神社は、仏像を神体としているばあいが多かったが、そのほか、疱瘡神、稲荷、大歳神、山の神、塞の神、地主神などが祀られており、名称や由来を尋ねても、よくわからないばあいもあった。また、祭神を鵜葺草葺不合尊だとか神武天皇だとかするものもあったが、しかし、その多くは近年になってそうした神名に改められたもので、かえって由緒の怪しいばあいも多かった。小池は、こうした祭神を一つ一つ調べ、仏像を取りのぞき、道祖神は八衢彦・八衢姫神に改めるとか、地主神は大名持・少彦名神に改めるとか、それぞれの神の由来た地名の類推などから神名を定め、神体を指定した。p.166

 こういう人工的な操作は、全国各地で行われたんだろうな。熊本市の東部では菅原神社が多いけど、こういうのも、そうやって「天神」を菅原道真にしたんじゃなかろうか。

 こうして、島地たちの「信教の自由」論においては、内面化された国家至上主義が自明の前提とされて、近代国家建設という課題にあわせて宗門を改革し、門徒大衆を教導してゆくことに問題意識がおかれたのである。こうした島地たちにたいして、真宗信仰の超世俗性が忘れられており、国家そのものを超えるような視点がないと批評するとすれば、そこには、歴史の段階を無視した酷なところがあるといえよう。ナショナリズムと文明は、当時の日本人がはじめて体験しつつあった歴史のあたらしい内実であり、それを相対化するためには、べつの歴史的段階と経験を必要とするはずだからである。
 しかし、島地たちが、仏教とりわけ真宗をもっとも近代的な宗教だとし、それをもってまだ愚昧なままに眠っている人々を教導しなければならないとしたとき、それは、現実の真宗信仰とはまったくべつの宗教観念をもちだすことを意味していた。島地たちの頭脳のなかの真宗と現実の信仰とのこのズレは、島地たちの啓蒙的意欲をかきたてたが、しかしそれは、啓蒙家としての独善性をもって現実に臨むことを意味していた。島地たちのこの啓蒙家としての独善性には、彼らがきびしく批判した神道家などの国民意識の統合をめざす独善性と、いくらか似たところさえなくもなかった。それは、近代化してゆく日本社会にむけられた“分割”の、より近代化されたもう一つの様式にほかならなかったからである。p.205

 これらの事例から理解できるように、啓蒙思想家たちの「信教の自由」論も、人間精神の自由の根源的なあらわれとして信教の自由をもとめていたというよりも、政教分離の原則にたつ近代国家の制度の模倣にすぎなかったことが理解されよう。彼らの論理では、国家の安寧や秩序の方が、「信教の自由」よりも優先しているのだが、さらにその啓蒙家としての立場からして、国家の秩序と対立する異端の教派はもとより、民衆の民俗信仰的な宗教生活の大部分も、おなじ立場から、当然のように否定されてしまうのである。島地たちとおなじ独りよがりの近代的な自由論ともいえるが、島地たちのばあいは、真宗の宗教思想をそれなりにつきつめて到達した真宗の近代性への確信に基礎づけられているところに、それでもまだ救いがあるともいえよう。啓蒙主義者たちは、その啓蒙の情熱を発揮すれば発揮するほど、現実の宗教生活にたいしては、いっそう尊大な無理解に陥ってしまうのであった。p.207-8

“信教の自由”
帝国憲法第二十八条の「信教の自由」の規定は、「日本臣民ハ、安寧秩序ヲ妨ゲズ、及臣民タルノ義務ニ背カザル限ニ於テ、信教ノ自由ヲ有ス」となっている。この規定の特徴は、その前後の自由権の規定が、「法律ノ範囲内ニ於テ」とか「法律ノ定メタル場合ヲ除ク外」と、成文法との関係で規定されているのに、この条文だけは、「安寧秩序ヲ妨ゲズ、及臣民タルノ義務ニ背カザル限」という漠然とした制限つきになっていることにある。(葦津珍彦「帝国憲法時代の神社と宗教」)。このあいまいな制限規定は、実際問題としては、一般的な規範や習俗への同調化をそれみずからで強要したり、そうした強要を容認したりすることを容易にした。もちろん、時代の状況や宗教の社会的位置のいかんなどによって、各宗教に認められた「自由」の実際上の範囲や性格に多様性があったが、こうした漠然とした制限規定のもとでは、「信教の自由」は、国家が要求する秩序原理へすすんで同調することと同義にさえなりかねなかった。そして、神社崇拝は、その基盤で民衆の日常的宗教行為につらなることで現実に機能しているのだから、法的には神社崇拝と宗教はべつだと強弁されても、「安寧秩序」や「臣民タルノ義務」に背くまいとすれば、神社神道の受容とそれへの同調化が、それぞれの宗派教団にはほとんど極限的なきびしさで求められてしまうことにさえなったのである。
 神仏分離以下の諸政策は、国民的規模での意識統合の試みとしては、企図の壮大さに比して、内容的にはお粗末で独善的、結果は失敗だったともいえよう。しかし、国体神学の信奉者たちとこれらの諸政策とは、国家的課題にあわせて人々の意識を編成替えするという課題を、否応ない強烈さで人々の眼前に提示してみせた。人々がこうした立場からの暴力的再編成を拒もうとするとき、そこに提示された国家的課題は、より内面化されて主体的にになわれるほかなかった。国家による国民意識への直接的な統合の企てとしてはじまった政策と運動は、人々の“自由”を媒介とした統合へとバトンタッチされて、神仏分離廃仏毀釈神道国教化政策の歴史は終わった。p.209-211

 直接的な神道国教化は失敗に終わったが、その政策の目的とする、天皇を至上とするナショナリズムと国民統合は、人々の心の中に内面化されて、結局は既存の宗教や文化的秩序を抜本的に編成替えしたと。