ヘンリー・メイヒュー『ロンドン貧乏物語:ヴィクトリア時代 呼売商人の生活誌』

ロンドン貧乏物語―ヴィクトリア時代 呼売商人の生活誌

ロンドン貧乏物語―ヴィクトリア時代 呼売商人の生活誌

 副題のとおり、19世紀半ば、ロンドンの呼び売り商人がどんな商品を扱って、どんな生活をしていたかを紹介している。19世紀半ばのジャーナリスト、ヘンリー・メイヒューの著作『ロンドンの労働とロンドンの貧民』から、呼び売り関係の記事を集めた抄録。本書の訳者が先に同書から抄訳した『ヴィクトリア時代ロンドン路地裏の生活誌』の拾遺的な位置づけの本。思ったより、読むのにてこずったな。後半、一本調子になって、進まなかった。
 構成としては、前のほうに呼び売り商人の生活関係のトピックを。13章以降は、商品単位での紹介。ラストの6章ほどは、個人へのインタビュー記事や「叩き売り商人」、小売商人への卸商である「安物屋」など雑多に。だいたいすべての分野で、ここ10年ほどで売れなくなったという嘆きの声が聞かれる。本書は1849年ごろの取材を元にして書かれているようだが、1830-40年代になんか経済構造の転換か、不景気でもあったのだろうか。
 さまざまな売り物が紹介されているのが興味深い。愛玩動物から、食べ物類、文具や文章を売る人々、各種の製造物、さらには石炭の小ロット販売とか。食料品や小間物類は仕入れに金がかからないし、道具類も必要ないから、貧乏な人が多いな。一方で、金属製品や雑貨類を市場を中心に行商して歩く「叩き売り商人」の商売の規模のちがいとか。拳銃がパブなどを中心に流通しているってのも興味深いな。この時期だとまだ、民間には先込め式が流通していたと思うけど。あるいは、もうリボルバーなのかね。鳥がペットとして大量に売られていた状況とか、金魚が英国内で繁殖されている状況なども興味深い。『ドリトル先生』シリーズで、猫肉屋のマシューってキャラクターが登場するけど、あれは廃用馬の肉を茹でたものを動物用の餌として売り歩く商売だったんだな。生肉を持ち歩くよりは、衛生的で、保存性も良くなるわな。
 あと、著者の中産階級的偏見が少々鼻につくかな。


 以下、メモ:

 一緒に住んでいて呼売商人をしているカップルの一割――多く見積もっても一割――しか結婚していない。しかし、クラーケンウェル教区では結婚しているカップルが二割で、この差は簡単に説明できる。降誕節と復活祭の期間は、この教区の住民は手数料無しで結婚できるからだ。p.13

 そうすると、この時期、都市部では人口推計の資料として、教区の史料は役立たずということなのかね。まあ、洗礼と葬式は、かなり網羅すると思われるが。

 彼らの道徳観は、不思議なくらい、未開人と共通する部分が多いのだが、じつはそうではないほうがおかしいのかもしれない。彼らはイングランドの《遊牧民》みたいなもので、家庭の楽しみなど知らないし、また望んでもいない。炉辺は文明人にとっては神聖な象徴であり、親から子、子から孫へとそれぞれの世代が大切にしている価値観を教え、奨励するための場であるが、彼らにはなんの魅力ももたない。酒場が父親のいちばんの居場所であり、母親にとって家は上等なテントにすぎない。母親はいつも家を離れて売り場にいるか、朝から晩まで行商をしているかで、子供たちは横町や路地で勝手に遊んでは一日を過ごし、貧しい社会から道徳を学ぶのだ。p.35-6

 なんか、いまどきのオタクとDQNの文化論を髣髴とさせる物言いだな。
 農村の文化とか、道徳観と比較しないと意味がないのではなかろうか。まあ、急激に流入した人々の間で、独自の文化が育っていたということなのかも知れないが。

 ヒバリの年間捕獲数は六万羽。この中にはいわゆるヒバリのほかに、モリヒバリ、タヒバリ、ツチスドリも含まれている。この中でヒバリが圧倒的に人気があるのは、「歌声に力強さ」があるためだが、しかし、その力強さがないからこそタヒバリのほうを好む者もいる。捕まえたばかりのヒバリは街頭で六ペンスから八ペンスで売られるが、訓練したものは二シリング六ペンスになる、総数の十分の一は街頭販売である。
 上流階級のテーブルに供されるヒバリは、ロンドンの捕獲業者が調達することはない。業者はもっぱら店舗と街頭商人向けの「ヒバリの鳴鳥」を扱う。食用のヒバリはかつてはパイの材料として珍重されていたが、現在はローストするのが普通である。産地は主にケンブリッジシャーで、多少はベッドフォードシャー産もある。すぐに(生きたままではなく)レドンホールの市場に送られ、市場では年に二十一万五千羽が売られ、その三分の二がロンドンで消費される。p.73

 毎年、大量の野鳥がペットとして「消費」されていたと。ついでに、ヒバリは食い物としても、別に捕獲されていたと。

 現在、カナリヤは主にオランダとドイツから輸入されていて、両国では盛んにカナリヤの飼育が行われており、特にオランダは商売となると万事にそうだが、丁寧に扱われて、雛が九ヵ月から一歳になる春に毎年運ばれてくる。三〇年前、ロンドン市場を取引先にするカナリヤの飼育と調達を行っている中心はチロル人だった。ナポレオンが退位した一八一四年からの平和な時代以降、十年から十二年間は毎年約二千羽が運ばれてきた。彼らは背中に籠を背負って、フランスかオランダ(当時はベルギー)の目的の港に着くまで歩いたのである。標準的なカナリヤの価格は当時は五シリングから八シリング六ペンスで、かなりの数が街頭販売で売られた。当時、カナリヤを野外で売っていた中心的な地域はホワイトチャペルとベスナルグルーンだったそうである。この地域をよく知る人なら誰でも、この都市部でさえずっている鳥たちが、こんな街頭販売のためにラエティア地方アルプスの渓谷で育てられたのだと思うと、口もとがゆるんだことだろう。チロル人がこんな商売は――パンとタマネギと水で生きているような人びとでも――割に合わないとやめることになったのは、イングランド・オランダ・ドイツ間の情報伝達が著しく発達したからと、輸送の経費も安くなったからだと思われる。p.78

 19世紀前半のカナリヤの流通。
カナリアWikipedia

 ムクドリはかつては街頭で盛大に売られていたのだが、今となってはその面影程度しか見かけなくなった。ムクドリの数も少なくなってしまい、人気もなくなってしまった。現在では四〇羽を超える群れもめったに見られなくなった、というより、そもそも群れを見かけることなど稀になったが、以前は何百羽も何千羽も群れをなして集まっていたこともあるのだ。廃屋とか古い家屋や納屋の屋根――ムクドリは古くて崩れかけている建物が好きなのだ――はムクドリで隠れるほどだった。貧しい者と農民にはオウムの代わりだった。言葉を教えたり、時には汚い言葉を発するようにし向けたり。しかし、今はムクドリは自分の鳴き声は別にすると、沈黙したままである。馴らしたり、芸を教えたりということもめったになくなった。p.82

 取り尽したのか、都市化で生息域が変わったのか…

 スピタルフィールズの変貌ぶりははすさまじい。低賃金が広まると、織工の庭が姿を消してしまい、ハト小屋はたとえ建材の木が朽ちていなくとも、もう伝書バトも、イエバトも、ホースマンも、ドバトも、マンクも、パウターバトも、コキジバトも、宙返りバトも、クジャクバトも、またそれ自体がすでに一つの種類になっているが、鑑賞バトのさらに様々な種類のハトもいなくなった。ツグミかムネアカヒワが織機のカタカタいう音に合わせてさえずっているだけで、それしか聞こえない。また、上記の通り、チューリップ、ダリヤ、(時には)フクシアの栽培がわずかな経費で行われていたが、それでも経費は経費であり、織工の賃金がだんだんと低くなるにつれて、その出費の余裕も時間の余裕もなくなった。生活費のたしにするために花の栽培をしたり、ハトの飼育をするには、片手間の時間では対応できない。スピタルフィールズの労働者は仕事時間ではなく、暇な時間を使っていたのである。p.87-8

 この時期、デフレでも起きていたのかね。ここでいう織工は、機械化された織物産業の労働者だよな。

 生きた馬は「解体屋」と呼ばれる担当者によって処分される。この担当者の収入は一日に平均四シリングである。深夜十二時に作業を始めるのだが。これは午前六時よりも前に一部の肉を煮る必要があるためであるが、相当量の肉は六時前には、商人たちに渡される。解体される馬はたてがみをできるだけ短く刈っておく(馬の毛は貴重だから)。それから血に染まった古い前掛けで目隠しをされる。処分される時に、屠畜担当者の姿が見えないようにするのである。馬を苦しめないように、柄の長い斧と一本の棒を使って処分する。屠畜がすむと目隠しを取り、肉を大きな塊のまま骨からはずす。肉は部位によって臀部、前躯、クラムボーン、のど、首、胸、背、バラ、腎臓、心臓、タン、レバー、ライトと呼ばれる。骨(解体屋は「ラック」と呼ぶ)は切りきざんで、脂肪を取るために煮る。脂肪は馬具や馬車の車輪の油に使用する。骨そのものは肥料になるので売れる。肉は直径二・七メートル、深さ一・六メートルの大きな銅釜あるいは鍋に放りこまれる。この大釜一つにはかなり大きな馬三頭分の肉が入る。醸造所から買った大きな馬なら二頭でいっぱいになることもあるが、貧弱な辻馬車の馬なら四頭分も入る。
 煮る時間は「屠殺された」馬の肉なら一時間二〇分ぐらい、死んだ馬(老衰でも病死でも)なら二時間から二時間二〇分ぐらい。煮たら銅釜から取り出して、石の上にのせ、水をふりかけて冷ます。それから重さを量って、一一二ポンド、五十六ポンド、二十八ポンド、十四ポンド、七ポンド、そして三・五ポンドの塊にわける。分けられた肉は荷車にのせて「配達屋」に届けるか、もしくは五時頃に配達屋が仕入れにやってくる。この作業が昼の十二時まで続く。肉の価格は冬場はハンドレッドウェイト当たり十四シリングで、夏場は十六シリング。内臓は十二ポンド当たり六ペンスで卸されるが、すべて犬と猫用である。
 配達屋すなわち街頭商人らはそれぞれの「持ち場」へと肉を運んでいくのである。販売価格はポンド当たり二・五ペンスで、小さく切って串に刺して、一本一ファージング(四分の一ペニー)、半ペニー、一ペニーの三種類がある。
(中略)
ある屠場だけで一〇〇人以上の業者が肉を仕入れて、毎週平均一五〇頭の馬が解体されている。一ヵ所の屠場につき週に六〇頭以上の馬がさばかれているとみてよいだろうから、ロンドンでは、十二ヵ所の屠場で週に七二〇頭の馬が扱われていることになり、一年間でざっと三万七五〇〇頭になる。
 ロンドンで猫と犬の餌として肉を売る行商人は、ほとんど男性ばかりだが、少なくとも一千人はいる。
 屠畜業者は短期間で莫大な財産を築いてしまうと言われ、商人からは金を造っていると言われている。彼らは多くの場合、何年かすると辞めて、大農場を経営する。十二年努めた後に、数千ポンドの財産をもって退職し、今は三ヵ所に大農場を所有している者もいる。p.182-184

 廃用場の解体から肉の販売まで。年間37500頭って、この時代、馬が大量に使われていたんだなあ。あとは、屠畜業者の儲けぶりとか、猫肉屋の数とか。たてがみ、脂肪、骨と、再利用されるんだな。