菊地章太『葬儀と日本人:位牌の比較宗教史』

葬儀と日本人: 位牌の比較宗教史 (ちくま新書)

葬儀と日本人: 位牌の比較宗教史 (ちくま新書)

 位牌の起源、死者の「魂」がどこに宿るかという問題を、中国古代の儒教儀礼書までさかのぼっている。こうしてみると、49日をはじめ、『儀礼』や朱子の『家礼』で書かれた儀礼が、禅宗の『清規』経由で、現在の日本の葬送儀礼に影響しているのだなと驚いた。一方で、道教の葬送儀礼から、ソリッドな儀礼からではすくい取れない、死者の霊魂に対する思いといった方向へも議論が展開していて、儀礼と心情の両面から死者の霊魂に対して、遺族がどのように処してきたか、興味深いバランスの書物になっているように思う。
 先祖祭祀がもともと仏教にあったものではなく、東アジア諸国特有の文化であること。仏教が、東アジア文化圏の需要に即して変容した「仏教風」の儀式であることが指摘される。インドなどの南アジア文化圏の仏教では、死者の霊魂は転生してしまうので、わざわざ長期的に年忌の法要を営む必要がない。また、遺体の処理にしても朽ちるに任せる方向で、墓を取り立てて作ったりしないという。うちは浄土真宗で、法要のときにお坊さんのお説教なんかを聴くと、そのあたりの東アジア圏の祖霊に対する儀礼浄土真宗的な死者は阿弥陀仏と一体化するという教えの間を取り持つのに苦労している感じが濃厚にする。逆に、それがおもしろいなあと。


 第一章は『儀礼』などの儀礼書に描かれる葬送儀式の検証。死者の魂の寄代として、「銘」「重」「主」などが作られるが、祭られては消えていくものとして、野位牌と位牌との共通性を指摘する。「主」なんか、そのまま今の位牌っぽいよなあ。
 第二章は道教の葬送儀礼儒教などがすくい取れない庶民などの葬送。祝詞も似たようなものかもしれないが、神様が役人で、いちいち上表文を書いて読み上げなくてはならないって、めんどくさい様な気がする。死後もお役所仕事を相手にするんですか。あと、先祖の罪業が子孫にかかってくるのもかなわないな。あとは、弔われなかった霊を慰める施餓鬼に通じる儀礼や死者の霊魂が集う場としての山など、日中の共通性など。
 第三章は仏教。禅宗の教団の規則である「清規」が儒教の葬送儀礼を摂取しつつ、仏教色を加えた葬送儀礼を創出。この際、修行が済んだ尊宿と修行半ばでなくなった亡僧の二つにに分けられたが、後者の儀礼を援用することによって、在家信者も死後に受戒させ、仏式に葬儀を適用する道が開かれたこと。遺影や位牌、香炉に花など、現在の葬儀に欠かせないものがここで出現する。また、国内の「清規」では葬儀の記述が少ないのが、後には増えていくように、禅宗が日本社会に普及していく上で葬儀への関与が梃子になったと指摘される。
 第四章は日本近世の葬儀への展開。足利尊氏の葬儀ではすでに位牌にどういう文字を書くかが問題になっていて、少なくとも鎌倉時代の北条執権の時代までさかのぼること。元興寺極楽坊で発見された遺品から見つかった位牌が最古級で最も古いものは1349年なのだそうな。当時はある程度集積すると供養して焼却していたため、残らないそうだ。また、近世に入ると寺請制度が徹底され、これによって庶民まで仏式の葬儀が普及することになる。破産者の財産リストから、中下層民まで仏壇が普及していた状況が明らかにされる。同時に、浄土真宗地域では墓を作らないなど、仏教のもともとの姿に立ち返ろうとする動きも見られる。
 第五章はまとめ。魂がどこにあるか、祭る側の心情といった部分に焦点を合わせて議論している。中国の先祖への意識が「始祖」にさかのぼる強烈な血と系譜の意識を持っているのに比べると、日本人の先祖への意識は割合淡白で数世代ほどで認識が途切れてしまうこと。血統よりも、「家」への意識が強い状況。中越地震時の山古志村の人々への調査経験から、霊は墓や位牌、里山などあちこちに遍在している意識。どこからか見守ってくれていて、いつかは忘れ去られていくという日本人の死者への意識やそれが自然の環境とつながっているという指摘。山古志だと、先祖と風土と住民の関係は深いのだろうな。真宗地域で、都市の新興住宅地に住んでいると、そのあたりの死者に対する意識がドライになりがちのような。そもそも、現在、新興住宅地に移ってきた人々の「家」って、まだ三代も続いていないし、同じところに住み続ける可能性も低いしな。


 以下、メモ:

 位牌に対する関心は仏教学においてはもっと遅れた。明治以降における仏教の学問的研究は、西洋哲学と対峙しうる東洋哲学の樹立という高らかな理想のもとに展開した。仏教を哲学として理解し、迷信を払拭する。これは近代化のなかで仏教を再興するためには不可欠の作業であった。その傾向は今もつづいている。祭礼や芸能をはじめ共同体がになっていた侵攻の遺産のなかには、その過程で切り捨てられていったものが少なくない。p.26

 学問的な仏教は大事だと思うけど、祭礼や芸能を切り捨てていったことが既存仏教の生命力の低下に影響しているのだと思う。その隙間を、さまざまな新興宗教が埋めていったんだろうな。

 歴史的には位牌という実体の起源は宋代の禅宗に求められよう。その前段階に朱熹の『家礼』があることは、最近の朱子学の研究においても主張されるようになった。『家礼』にもとづく冠婚葬祭のありようは、中国だけでなく韓国や日本においても確固たる規範を提供しつづけてきた。
 ここでさらに一歩を進めてみたい。位牌を含むところの葬送儀礼が今から二千年前の儒教にさかのぼることを主張したいと思う。現代の墓や位牌にかかわる問題の根源はほとんどこのとき出そろっており、昨今話題になっている新しい葬りのありようも、歴史をふりかえってみれば新しいものは何もなさそうである。それを見さだめることができれば、かえって新しい葬送のスタイルへ踏み出す可能性も開かれていくのではないか。p.38-9

 まあ、少なくとも「代々の墓」形式は維持できそうにないよなあ。

 宋代には仏教や道教の民間への浸透によって葬儀はかなり普及していた。『家礼』にもそうした状況が記されている。「死に始まりてより七七日・百日・期年・再期・除喪に及び、僧を飯う」とある。わが国の現状となんら変わりがない。七七日は四十九日の満中陰、期年は年忌法要、除喪は忌明けを言う。p.79

 へえ。この時代の中国からか。

 いったい回忌法要という習慣があるのは仏教が広まった地域のなかでも東アジアだけである。葬式のあと、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌とつづく法事は、日本人にとっては普通の行事である。死後の通過儀礼とさえ言えるのではないか。本来は故人の供養が目的のはずだが、今では法事の名のもとに親族がつどう機会となっている。
 ブータンに長く滞在した仏教学者の今枝由郎氏が述べている。日本人でブータンにゆかりのある人がいた。遺族が十三回忌の法要を依頼した。するとブータンの僧侶からこんな答えが返ってきた。「あの人は、そんなに悪い人とは思えなかったが、何か重大な悪行でも犯していたのか。いずれにせよ、すでにどこかに、何らかのかたちで生まれ変わっているから、いまさら追善供養の法要でもないだろう」と。
 仏教の輪廻の教えからすればそのとおりであろう。死後もっとも長くても四十九日までには次の転生先が決まる。それまでに供養をすればよい。そうすればよい生まれ変わりが期待できる。しかしすでにどこかに転生したあとで、何年もしてから追加の法要をいとなむ根拠はどこにもないのである。
 没後に時を定めて故人の祭を行う。これは古代の儒教において定められていた。これを中国仏教が摂取して普及させていった。こうした状況のなかで『家礼』が撰述された。朱熹は冠婚葬祭の儀式を簡略化し、庶人にも開放することでその普及をはかった。p.80-81

 年忌法要の類は、むしろ儒教的な先祖意識のもとで行われるもので、仏教の装いをもっていても、仏教の教えとは違うと。

 人の生と死について、伝統的な宗教には明確な神学や教義が用意されている。しかし神学者でなく教義学者でない私たちが、たとえば、先に逝ってしまった大切な人がどこでどうしているのかなどと考えだすと、ずいぶん心情的なものが加わってくる。それは神学や教義学の範囲にはおさまりきらない。おそらく誰もがそこはかとなく抱くところの、この世ならぬものへの恐れやあこがれとでもいうべきものによほど近づいている。そうなると個々の宗教に限定されない見方、あるいはもろもろの宗教を横断する視点からながめてみることが、ときには有効になるかもしれない。
 死者の霊とか、怨念とか、呪いとか、正統的な神学や教義学からはみだしてしまうものはたくさんある。しかし、じつはこういうものほど私たちの心のなかで大きなわだかまりになっていたりはしないか。文学に構想をあたて、芸能に素材を提供するのも、多くはこうした領域であろう。p.115-6

 正統派の神学では掬い取れないもの。

 革命以前に撮影された蒿里の写真がある。注目したいのは、そこにたくさん見えるのはいずれも亡くなった人を記念する文章を刻んだ石碑であって、墓石ではないということである。私たちの身近の墓地に見られるような「先祖代々之墓」あるいは「何々家之墓」と書いてあって、その下に遺骨を収納できるような墓石というのは、日本はもとより東アジアの葬墓史においてもごく一時的なものにすぎない。このことは、これからの墓のありようを考えるうえで注意してよいのではないか。p.118-9

 熊本市内を見る限り、そういうスタイルの墓はせいぜい100年とちょっとくらいだしな。そもそも、現在のカロウト式の墓が普及した経緯って、なんだったんだろうな。そっちのほうが不思議だ。

 日本にもたらされた禅宗もこうした動きと無関係ではありえない。道元の時代からへだたるにつれ、禅宗は出家だけでなく在家へも視野を拡大させていく。圭室諦成によれば、曹洞宗の語録に語られているのは、初期にはほとんど全部が坐禅にかかわるものであった。それは僧侶のためのものであった。しかし、徐々に葬儀にかかわるものが増えていき、やがて坐禅と葬儀の比重が逆転する。これは応仁の乱の前後とされる。やはり社会の転換期であった。p.125

 社会の変動とそれに伴うあらたな儀式の模索。

 太祖榮山の高弟である蛾山禅師の門流が、北陸を起点に全国的な規模で教線を拡大していった。地方の支配層や下級武士、さらに農民のあいだに曹洞宗が普及した。これにはいろいろな理由が考えられる。受戒会を開いて叢林の生活規範を庶民の日常生活に浸透させたこと、神道陰陽道などから派生した民間信仰を取りこんだこと、さらには葬儀を積極的に推し進めて布教の手段としたことがあげられよう。p.145

 葬式仏教の重要性。

 東京や大阪ではすでに二十年にもなるというが、湯灌を専門に行う葬儀社がある。これは寝たきりの人の出張入浴サービスを応用したのがもとになっていて、移動式の浴槽を使う。喪家や葬儀場に持ちこんで湯灌をする。体を洗う女性と進行役の男性が組になって行なう。湯灌の儀式として行なうわけである。山田慎也氏による報告がある。
 亡くなった人の衣服を脱がせるときに、大きなバスタオルをかけるから肌は見えない。そうしたこまやかな配慮もなされている。バスタブの上のネットに横たえられた遺体に手桶で湯をかける。湯をかける儀式を、文字どおり儀式として遺族にやっていただくわけである。
 進行役の人が、「お湯は人肌になっておりますので、お母さまも気持ちよくいられます」と言う。そうすると遺族の方々も、「おかあちゃん、亡くなるまでしばらくお風呂に入れなかったもんね」などと言うそうである。いかにも最後のお風呂という感じで、湯灌が行なわれる。それでもこれが大切なお別れの儀式であることも示されているのである。p.154-5

 湯灌とお別れの儀式。これの前のページの実源派の教祖が自ら信者の遺体を清める小教団の話も印象的。

 庶民のあいだで仏式の葬儀が行われるようになるのは近世になってからである。江戸時代には幕藩体制のもとで寺請制度がはじまる。これが徹底されるようになるのは十七世紀の末ごろとされる。あらゆる階層に仏式葬儀が強制された。それとともに位牌も徐々に普及していくことになる。
 仏教が日本に伝わったのは今から千五百年前である。しかし仏式葬儀があまねく行きわたるのは、ずっと遅れて三百年前であった。p.174

 寺請制度と仏式葬儀の関係。つーか、千五百年前には仏式葬儀そのものがなかったんじゃね。

 元禄八年(一六九五)に浄土宗末寺の悉皆調査がはじめられた。その記録は『蓮門精舎旧詞』にまとめられている。竹田聽洲の研究がある。収録された全国六千あまりの寺の伝えによれば、創設の年代は三分の二が天正元年(一五七三)から寛永二十年(一六四三)までの七十年ほどのかぎられた時期に集中していた。しかもこの過密傾向は特定地域だけの局地現象ではなく、ほぼ全国共通の現象である。これは驚くべきことであり、その前後数十年を加えるならば、日本に今ある寺院総数のじつに九割が戦国時代の末期から江戸時代の初期までにできあがったことになる。p.177-8

 まあ、この時期以降には安定的に寺院を維持できなかったと言うのもありそうだけど。

 仏式の葬儀は江戸時代のなかごろにはほぼ全国で実施されるようになった。それとともに寺域内における墓地の造営がさかんになり、仏壇が家々に普及した。墓地にある檀家の墓碑は元禄以降のものが圧倒的に多いとされる。同じことが仏壇に置かれる位牌や過去帳への法名の記載においても言える。まさしくこの時期に檀家制が確定した。それは庶民にとって「家」の確立期とかさなっていた。
 仏壇はどの程度に普及したのか。これについては家財目録をもとにその所持量と階層差をさぐった小泉和子氏の研究がある。目録とはいっても、中下層の場合には破産によって家財が売却されたときの記録である。
 安永五年(一七七六)信濃国(長野県)佐久郡と文政十一年(一八二八)同国上田領の中下層農家の破産にともなう「払物覚」がある。これを見ると、富裕な農家にくらべて供膳具がとぼしい。収納家具はいたって貧弱である。それでも両家とも仏壇は所有していた。佐久郡の農家では、櫃二百文に対して仏壇六百文という高値で売却されている。中下層の農家にまで仏壇の需要が進んでいたことが知られる。
 都市部ではどうか。寛政元年(一七八九)江戸日本橋本石町の裏長屋の家財没収による覚書がある。そこには仏壇と神棚が記載されていた。零細な庶民でさえ、先祖や家という意識を持つようになっていたことの現われにほかならない。p.179-180

 江戸時代中期の仏壇の普及。結構広範な階層まで普及していたんだな。

 在来の習俗の踏襲というだけでは説明がつかない。社会学者の森岡清美は次のように考えた。先祖の霊が宿るとすれば、その中枢的な拠点は仏壇にある。他はかえりみられなくなっても仏壇だけは執拗にその存在を主張しつづける。先祖祭祀が維持されていく要点はここにあるという。そのうえで言う。「日本人の基底的観念として、子孫の奉斎を受け子孫に冥助を垂れる家の神に対する信仰があり、この信仰こそキリスト教の神観念に真っ向からぶつかる異教的信仰に他ならない」と。
 そうだろうか。はたしてこれはキリスト教の信仰のような「信仰」なのか。子孫に祀られ、子孫を見守っていく。それはキリスト教の神のような「神」なのか。実際にはキリスト教の神との信仰とも真っ向から対立などしていない。そもそも「対立」するそんざいではない。だからこそ、なくならないのではないか。p.195

 仏壇って、微妙に衰退しつつあるような。明確な教義じゃないからこそ、生き残ると言うのはありそう。

 そこへ行くと日本人である私たちは、血というものにいたって淡白ではないか。一部の職業をのぞけば、あまり大きな意味さえ持っていない。先祖にしても同様である。墓石には「何々家先祖代々之墓」と彫ってあるのを見かけはするが、実際に私たちは先祖という言葉をどのくらいまでさかのぼって意識しているのか。
 両親からはじまって、祖父母から曾祖父母くらいまでがせいぜいではないか。それより先は記憶のなかにはない。墓や位牌を粗末にしたりはしないが、さりとてお盆のときにもどって来るなかには実感として入っていない。これは現代になって肉親の情が薄れてきたからというわけではない。日常祀られているのはせいぜい三代先までというのは、何百年も前からすでにそうであった。p.199-200

 大体ある程度の期間がすぎると、墓石も遺骨も処分していたようだしな。

 ほかにも震災体験の記録をもとにさまざまな調査研究がこころみられてきた。その成果はすでに多数刊行されており、今後の復興支援のありようを視野に入れた考察も行なわれている。新潟大学による報告のなかで、復興とは「被災者を、彼らのもつ記憶や暮らしてきた場所と切り離して新しい街をつくることではない」とあったのが注意される。
(中略)
 山古志に帰るということは、そうした記憶と結びついた場にもどっていくことであろう。おそらく多くの方々が取りもどしたいと願ったのは、なによりも「もとの暮らし」ではなかったか。より便利な暮らしでも、より活性化した集落でもない。それまでの日常を回復することであったろう。p.207-8

 いや全くその通りだと思う。しかし、東日本大震災では、それをころっと忘れて、「ショックドクトリン」に走っているんだよな。高台移転の必要性はともかくとして、一旦旧居住地にもどった上で、そこから移転を模索すべきだと思うのだが。「創造的復興」で策定に時間がかかっているあいだに、ほとんどの人が動いていく。さらに創造的に復興された街は、結局のところよその町と変わらないわけだからな。そうなると、住民はフラットに他の居住地との優劣を比較するようになってしまい、移住していく可能性が高くなる。阪神大震災中越地震の教訓が忘れ去られているのがアレだよなあ。


文献メモ:
小泉和子「暮らしの道具」『日本通史』第13巻、岩波書店、1994
竹田聽洲『祖先崇拝:民俗と歴史』平楽寺書店、1957
竹田聽洲『民族仏教と祖先信仰』東京大学出版会、1971
村瀬正章「墓のない家がある」『地方史研究』14-6、1964
山田慎也『現代日本の死と葬儀:葬祭業の展開と死生観の変容』東京大学出版会、2007
山田慎也「死への思いと葬祭業者」『東アジアの死者の行方と葬儀』勉誠出版、2009