鈴木博之『日本の〈地霊〉』

日本の“地霊”(ゲニウス・ロキ) (講談社現代新書)

日本の“地霊”(ゲニウス・ロキ) (講談社現代新書)

 日本の都市や建築に対する考え方として「場所」というものが重要であること。この点でヨーロッパの「空間」という考え方と対比できる。で、この場所性、すなわちその土地にまつわる記憶や関係に着目することで、抽象的になって土地から遊離してしまっている建築を落ち着けようということ、らしい。いまいち、「場所」と「空間」の違いなどが、理解できていないのだが。
 で、「地霊」こと「場所の記憶」を、具体的な土地に即して解いているのが、本書の大要といったところか。具体的な事例がおもしろい。第一章は国会議事堂の中央の塔が階段型のピラミッドのデザインの要因。憲政の原点である伊藤博文を神話化する意図で、伊藤の銅像の台座のデザインを導入していると指摘する。第二章は広島の平和公園の資料館と慰霊碑のHPシェル型が、原爆ドームへ「聖なる軸線」を通す意図であったこと。これが、厳島神社の空間構成と繋がると指摘している。あるいは、耕三寺のうつしの建物や渋沢栄一と王子と深谷のつながりなど、人と土地と歴史の交わりが描かれる。第二部の地方の迎賓館が天皇の「聖地」を作る意図があったというのも興味深い。


 以下、メモ:

 場所に蓄積されてゆく「土地の記憶」は、決して明快に説明しきれるものとばかりは限らない。不可解な、不合理な出来事もまた、ひとつの記憶となって尾を引いてゆくのである。すべてを白紙還元してしまうような現代の建築設計理論は、おそらく現在のみに行き、歴史や場所から切り離された抽象的な建築群か実利的な施設群しか生み出さないであろう。そうした建築群や施設群を、そのままで使う側のひとびとに受け止めてもらうには限界があることを知るべきだろう。
「地霊(ゲニウス・ロキ)」とは、土地の単なる因縁話や因果律ではなく、土地へのまなざしなのであり、都市や建築とわれわれとを橋わたしするものなのである。p.4

 まあ、最近の建築って、なんか本当に抽象的なだけの建物が多いような気がする。

 いつの時代にもわれわれが求めているのは意匠の「普遍性」ではなく、そこに神話的なものが付与された「固有性」なのではなかろうか。伊藤博文の影がそこにある。この意匠は国会に集まる議員たちに、無言のうちに先人伊藤博文の、命をかけた国政への参画の道を示そうとしたのではないか。それはいわば国家的スケールでの「メメント・モリ(死を思え)」というメッセージではないか。こうした意匠が生まれるのも、昭和戦前期ならではである。国会議事堂の建築は昭和一一年(一九三六)に完成する。そしてこれが、戦前における公的な建築の最大にして、最後の表現になった。p.26

 神話としての伊藤博文か。確かにこの時期ならではって感じではある。

 広場に集まったひとびとはこの慰霊碑に花を捧げ、平和を祈る。祈りのためにひざまずき、あるいは頭を下げたひとびとは、このHPシェルのトンネル型をした慰霊碑を通して、その先に建っている原爆ドームの姿を見ることになる。慰霊碑は、それを透かして原爆ドームを見据えるための装置なのだ。すべての焦点は原爆ドームなのであり、そこに向かって計画は周到に練り上げられている。p.37-8

 広島の平和記念公園の設計意図。

 丹下健三が日本建築の伝統のなかから汲み取ったものは、さまざまな次元における空間構成の手法、さまざまな部分に現われる造型モチーフだけでなく、その根底に存在している場所性の表現という性格なのである。それは、建築物が構想されるまさに出発点において、その建物が建てられなければならなかった根本原理が。場所の性格と可能性、すなわち地霊(ゲニウス・ロキ)の発見にあるということを、彼が知っていたことを示している。それが日本の建築の伝統のもっとも腐海部分に潜むことを、彼はその本質において見抜いた。p.44

 丹下健三がこの計画によって世界の建築界にデヴューし、その後、東京オリンピックの中心施設、大阪万国博覧会の中心施設、そして二度にわたる東京都庁舎の設計などによって、日本を代表する建築家となっていったことは、いまさら述べるまでもない。彼の建築案が幾度となく国家的行事の中心施設に用いられ、圧倒的支持を受けつづけたのは、そこに一種の超越的なカリスマ的デザインが宿っていたからである。われわれは無意識のうちに、それがわれわれの民俗の古層にまで触れるものであることを感じたのである。p.47

 丹下健三と伝統。

 ここで面白い話がある。岩崎家が懸命になって湯島の本邸周囲の土地を買い集めているのに対して、断固買収に応じなかった者がいたのである。これは湯島切通町九ノ二の土地三九坪五合六勺をもつ鈴木清次郎という男である。彼が明治一一年十二月十七日に「?葺弐階及平屋弐棟」「拾弐坪五合」を一二〇円で岩崎家に売ったことは書類に見えるのだが、土地は売らなかった。『本郷区史』はこんな話を載せている。
「当時岩崎家に於ては其の西隣町屋を買収するに際し、直接交渉を試みるときは其の高値となるべきを慮り、それぞれ手を廻らし各個に買収の歩を進めた。金網屋の鈴木清次郎は、湯島小学校の世話掛をなし、又区会議員にも選ばれた立派な男であるが、其の買収手段を陋劣なりとして断じて買収に応じない。為めに岩崎家に於ても止むを得ず鈴木家を境として塀を曲げることゝしたが、鈴木家のみの買収不能を注視せらるゝを厭ひ、同家以西は同家に似寄りの長屋を建てゝ世間体を繕つたといふことである。然るに斯の由緒ある鈴木金網店も、此の頃(昭和一〇年秋)神田佐久間町に移転して、『売貸家』の木札が掛けられて居るのは淋しい」
 いま、この辺りを歩いても、「塀の曲がり」はさほど不自然に思われないが、いつもこうした愛すべき臍曲がりはいるものである。『区史』は鈴木清次郎の行く末を案じていたけれど、この直後、彼は土地をついに売った。しかし新しい所有者として登記されたのは、下谷区練塀町二三に住む佐久間徳三郎であった。彼は岩崎家だけには土地を売らなかったのである。p.113-4

 いいねえ、こういうのw

 近代の都市の変化のなかでは、こうしたことは当たり前だと思うひともいる。けれどそれがどれほど異常なことかは、欧米の代表的「オフィス・ストリート」を思い起こしてみれば、理解できよう。丸の内が理想とした英国のシティには、イングランド銀行をはじめとして、一九世紀の建築が増改築されながらもいまもなお多く残されているし、ニューヨークのウォール街にも、J・P・モルガン社の本社屋をはじめ、今世紀初頭の建物がいくつも残っている。まるごと建物群が消えてしまった街はどこにもない。
 これは、どこかしら、ダムに水没してしまった村を思わせる。ダムの建設は山村を消し去ってきたが、大都市の真ん中でもおなじことが起きているのである。経済優先の「活力ある町」を掛け声にするかぎり、わが国には近代の村も町も育たないのではあるまいか。都市計画、都市づくりとは、道路や摩天楼を描き上げることであるより、まず安定した場所、安定した土地をひとびとに確保することではあるまいか。p.126-7

 まあ、日本の場合、地震災害があるから、ヨーロッパやアメリ東海岸とは一概に比較はできないが。ただ、ほいほい建物を消し去っていくのは確かだよなあ。つーか、最近は重機で削って、それ以前の痕跡さえ見えなくなるからなあ。

 さらにこれらの建物がはじめどこに建てられていたのかを調べてみるならば、明治以後の日本の近代が、各地の都市のどの場所を文明開化の拠点に選び、「聖別」したかが見えてくるはずである。場所は、そこを握るものに力を与える。p.168

 メモ。熊本ではどこかな。

 おなじように和風建築の名手であった大江宏という建築家も、彼が設計する建築の間取りは近代建築そのものであっても、そこに微妙に変化する屋根を架けることによって、建築を一変させたものである。彼の代表作である東京・千駄ヶ谷国立能楽堂を訪ねてみれば。日本の建築にとって屋根がどれほど大きな役割を果たすかが実感できるだろう。屋根に関する話は、しばしば大江宏から聞いた。
 そしてまた、これも直接聞いた話なのだが、日本建築史の大家であり、わたしの恩師である太田博太郎がいった言葉にこういうものがある。
「大名屋敷の絵図面が残っているけれど、あれに屋根を架けろといわれたって架けられるものじゃあない」
 その意味はこうだ。大名屋敷の間取りは読み解けても、棟が連なってゆく広大な大名屋敷にどのような屋根を連ねてゆけばいいのかは、単純には決められない。屋根の架け方はデザインそのものだからだ。歴史の研究は間取りのような機能に関係する部分は調べられるけれど、屋根のようないくつもの可能性のある要素は法則を抽出できない。部屋の性格が異なるときには、必ず屋根も異なったものが架けられるというのが、日本建築の伝統なのである。
 それほど屋根の構成には多様性があるのだ。逆にいえば、それほど多様に日本の建築は延び拡がってゆくものなのだ。この伝統は、温泉地の和風旅館を考えれば納得されるだろう。果てしなく延びてゆく廊下は、温泉旅館の醍醐味といってよい伝統なのだし、それは水平に拡がる日本の建築が巨大化するときに必ず現われる特質なのだ。p.220-1

 日本建築における屋根の重要性。