伊藤正敏『無縁所の中世』

無縁所の中世 (ちくま新書)

無縁所の中世 (ちくま新書)

 無縁所としての大寺社という観点から、無縁所がどのようなものだったかを描いている。「絶対無縁所」である比叡山興福寺などは「権門体制論」では権門として扱われるわけで、無縁所も強まりすぎると権力と見分けがつかなくなるということか。紹介されるエピソードも興味深い。
 第一章は寺社の持つ力について。神輿動座が臨時の「祭」であり、神のパワーが最大限に発揮される場であること。結果として、「理を超えた訴訟」となり、寺社側の有利に運ぶ状況。さらに、権力者との争いにおいて、公然と呪詛が行なわれ、それが公言される。このような呪術的、宗教的パワーを背景に大きな力をふるった。このような神仏への畏怖は、武士も共有していたこと。また、寺社が独自の「つわものの道」を持ち、武士に先行して「山城」を作り上げていたことなど強力な武力、金融などの経済力、京都周辺を包囲する拠点、日本列島の水田のかなりの割合を占めるなど巨大な所領基盤を持ち、政治に巨大な影響を及ぼし続けたことが指摘される。ただ、日本の中世を「宗教国家」と理解することにどこまで意味があるのかはちょっと疑問。極論すれば、宗教的でない国家って、前近代には存在しないのではないだろうか。「宗教国家」というレッテルは、逆に分かりにくくするように思う。
 第二章は、「無縁所」としての特性を抽出している。政治抗争に敗れた有力者から奴隷に至るまで、救いを求めて駆け込んでくるものを保護する意思。身分を越えた一味同心に象徴される平等の意識、一方で常日頃には構成員の行動を掣肘しない自由の両方の観念の存在。さらに、平等の観念から生命を尊重する意識が出てくる。さらに、境内の内部で検断による殺人を防ぐ平和領域であること。道路や港などのインフラ整備をはじめ、寺院の建築など社会的事業を、もっぱらになったこと。さまざまな移民や難民を受け入れる都市空間などの特性が指摘される。また、空也行基ら一般人出身の聖が社会のなかで大きな役割を果たし、寺社のメンバーになることで貴族や武士たちが殺害しても気にしない一般民衆であっても、墓所の法理などで保護されるようになること。寺社を通じ、宗教の力を利用して、「民衆闘争」が行なわれたと指摘する。
 第三章は、「無縁の場」と対比した有縁社会の無惨さを描く。犯罪者などならず者を取り込んだ武士団。傘下のものの生殺与奪の権利をほしいままにする武士のイエ。中世の軍勢が報酬として略奪を公然と認め、それから逃れようとするものは自力で守らなければならない自力救済の社会、さらに配下の兵士が結果として殺害されたとしても認める冷淡さ。恩賞で結びついただけの主従関係のもろさ。それに加えて、犯罪捜査の「検断」が容疑者の殺害、財産の略奪を認めるむき出しの暴力であり、徴税も略奪に近いものであった。また、検断得分として収入が見込めるため、冤罪も横行した。だからこそ、寺社は検断使や徴税吏の侵入を防ぐ不入の権利を獲得し、実力で維持しようとした。いきなり殺害されるような「不入」の権利こそが重要であったこと。それができるからこそ、寺社に大量の所領が集積されたと指摘する。
 第四章は網野善彦の『無縁・公界・楽』を批判しながら、「絶対無縁所」について議論する。比叡山興福寺などの自力で無縁所を維持できる有力寺社からなる「絶対無縁所」を「無縁所」の議論に組み込めなかったため、議論の根拠が脆弱になってしまったと指摘する。また、「無縁」の概念を広げすぎてしまったため、分かりにくくなったとも指摘する。
 中世の「無縁所」が単純な「アジール」ではなく、社会を支える基盤的存在であったこと。文化、生産力、技術力などで、武家や朝廷を寄せ付けない豊かさを持っていたこと。むしろ、寺社勢力こそが社会の機軸であったという。
 あと、中世の歴史学の武器として民俗学と考古学を比較して、考古学の有用性を高く評価しているが、これは確かにそうなんだろうな。古い時代になればなるほど。


 以下、メモ:

 中世は武士の時代……よく聞く決まり文句である。一一五六年の保元の乱以後を「武士の世」「武者の世」と呼んだのは、一二二〇年ごろに摂関家出身の天台座主慈円が書いた『愚管抄』である。「保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後、ムサノ世(武者の世)になりにける也ケリ」(第四)、「(保元元年)後白河院位ニツケマイラセテ、(中略)日本国ノ運ノツキハテテ、大乱ノイデキテ、ヒシト武士ノ世ニナリニシ也」(付録)。この観念は今日に至るまで、学説にも俗説にも、様々な形で継承されている。中世が武力による威圧、またその行使によって、大きく政治が左右された時代であることは確かだ。しかしそれは保元の乱に始まるわけではない。「武威の世」は、「武士の世」より四〇年以上前に到来していた。この頃から文書・日記で、武威という語がしきりに使われる。p.27

愚管抄』は、保元の乱よりずっと重要な源平合戦に多くを触れない。武士の世と言いながら、武士の地位の上昇を詳しく述べるわけでもない。何となれば、源平内乱の時代、摂関家はすでに政治の局外者に転落していたからだ。寺社勢力(その悪行)にもあまり触れていない。自らが延暦寺の長官、天台座主の立場にあったからである。保元の乱ばかりを大きく扱うのは、摂関家藤原頼長の戦死があまりに大きなショックだったからであろう。そう、保元の乱で明らかに凋落したもの、それは摂関家の権勢である。院政は保元以前に始まっており、すでに実権は院が握っていたが、乱前は教通・師通・頼長らが政治の表舞台にいた。乱後は摂関はいるかいないかわからない影の薄い存在になる。「日本で初めて歴史観を持って書かれた歴史書」と持ち上げられる『愚管抄』だが、慈円の関心は、摂関家の「家庭の問題」に集中し、「史観」レベルに達しない。愚の後に「痴」の一字を加えたほうがよいだろう。しかしこの慈円の貴族的偏見が後世の歴史学をねじ曲げた。
 慈円の偏見を取り払ってみれば、実力の時代、武威の世は、保元の乱よりずっと前に始まっている。同時代の宗忠がはっきり書いているではないか。武士の反乱ではなく寺社の武力が問題なのである。武士の台頭は永久より以後だ。武士の世という今の(悪い)時代は摂関家の後世になっての追想、「昔はよかった」の裏返しである。現場にいた警察トップがいう「武威の世」、「天のしからしむる秋」、どちらの言葉が重いだろうか。p.29-30

愚管抄』の歴史観に対する批判。武士より前に寺社の武力が問題になっていたと。

 鎌倉時代末期に書かれた幕府法の解説書『沙汰未練書』の用語篇に、「強訴とは理不尽の訴訟なり」とあり、「山門南都以下諸社にこれあり」と付記されている。「理不尽」は「無理非道な横車」というふうに聞こえる。中世でもそういう意味で使われる場合はあるが、「強訴」はれっきとした法律用語だ。平安時代の用例を詳しく見ると、読んで字のごとし、「理をつくすことをせず」の意味で使われている。道理にあうかどうかは無視し、証拠調べをせず審理を経ずに進められるべき訴訟、理を超えた訴訟が強訴だ。実際、事実とは関係なく、それが強訴であるという理由だけで勝訴とされることも多かった。理不尽の訴訟は、裁判の一タイプとして公的に認められているわけだ。一体何のために裁判があるのだろう、との疑問もわいてくる。現代だったら絶対にあり得ない法律用語だ。p.33-4

 現代では「超法規的処置」といった感じなのかね。神様が出てきた時点で、裁判終了みたいだな。

 祭りの日以外は神を動かしてはいけない……裏を返せば、神輿・神木動座は祭礼に準ずる状況なのだ。強訴とは、動いてはならない神が動く日、神威が無限大のパワーで発動される変則の祭りなのだ。祭礼の際にはみんなが神の前で平等になる。さらにこのとき、この場では、既成事実は全部ないことになる。すべてが消滅し神の意思だけが残る。荒ぶる神が動き出す……祭礼と神輿振り、ともに日常の縁が切れた非日常の無縁の時空におけるできごとだ。
 今日も各地に喧嘩祭りがあるが、少々の腕力沙汰も許される。一二八三年正月六日の強訴は、日吉神輿が警固の武士を蹴散らして四脚門をこわし内裏を占拠し、最も激しく荒れ狂った強訴事件として知られるが、内裏を制圧して天下を取った、などという意味はない。祭りにおける狂乱の際、神輿がその年の祭りをとりしきる責任者の家に突入して建物を破壊するクライマックスの儀式……そういう場面とよく似ている(建物は破壊されてもよいようにあらかじめ増改築されていることが多い)。p.38-9

 強訴はお祭りか。そりゃ、全部無効になるわな…

 しかし注意しなければならないことがある。猛威を振るったのが昔ながらの神々でないことだ。日吉神は比叡山の地主神だが、最澄以前の時代には所見がない。園城寺新羅明神は、中国渡来の神と思われるが正体不明である。北野天満宮菅原道真の怨霊を神として祀り上げたものだから、いうまでもなく新興神である。明治以後八坂神社と呼ばれる祇園社の神は、あるいはスサノオともいわれ、あるいは奈良時代以前から八坂の地に根を張っていた八坂造(国造)紀氏の氏神ともいうが、中世、そのような性格は失われている。祇園の神威が高まったのは、人口増加に伴い、京を疫病が襲うようになって以後である。この頃は怨霊などが疫病や飢饉を引き起こすと信じられ怖れられ、それを祀る御霊信仰が盛んであった。一〇〇一年、京都北郊の船岡山に祀られた今宮神社などが有名だ。祇園神は「祇園天神」とも書かれるから、北野天神と同じく、得体の知れない霊威が神格化された御霊神である。石清水八幡宮は八六〇年に九州の豊後宇佐八幡宮から来た外来神である。東大寺の鎮守も手向山八幡宮である。これらの神を奈良時代以前の神話の体系の中に置こうとすると居場所がない。以前の神々とは断絶がある。二十二社制は、朝廷が主要な二二の神社に限って幣を奉る制度で、これを預かる神社は最高の社格を誇ったが、その二二番目の指定が日吉社で一〇三九年、二一番目が祇園社である。二つとも伝統の古い神社でない。中世の新興勢力だ。これらが代表的な神仏習合の神であることも重要だ。
 古来の神、記紀神話の神々、三輪山の大物主や葛城山の神などは影をひそめ、恐るべき神威を振るったのは新しい神々であった。平安時代に神々の主役は交代した。指摘されざる日本思想史の盲点である。日本の神々は、古代以来同じ性質を持ったまま、万世一系のように連綿と続くわけではない。八幡宮天満宮祇園社(八坂神社)・日吉社(山王)・白山社・熊野社は、神社がなくなって地名のみが残る地を含め、全国至るところにあって数え切れない。神人たちが全国を歩いた足跡であり、中世寺社勢力が浸透した地域がどこかを知る手がかりである。これらの神々こそが今日につながるものだ。神々の伝統は中世に始まる。p.40-41

 そうなんだよな。記紀神話の神々なんて、一度死んだのを無理やりリバイバルしているだけの感が強い。

 前半の、日吉七社の神輿を京の九重の皇居に動座させ、容れられなければ、「骸を花洛の土に埋むべし」、京都を枕に討死しよう、の部分に決死の覚悟が見られる。後半は、それと同時に、自ら仏寺・神社を焼き払ってしまおう。山上は虎狼のすみか、日吉社は牛馬の住まいになるだろう。荒ぶる神を祀る者がいなくなれば、後でいかなる祟りがあるかわからないぞ、という脅迫である。この言い方は何度となく繰り返された。
 さらに「武士の主従はこの世だけ、たかが一旦の契である。そんなもののために、武士は命を軽んずる。けれども、当方はこの世とあの世、現世・来世の二世を仏神と約束した僧だ。迷わず身を捨てる」と言った。寺僧と仏神の絆は、武士の主従関係より強いものだ、と誇示した。「人と人の絆」はいつでも変わりうる。経験がそれを教える。一方「仏神と人との絆」は不変である。仏神との約束は主従の約束より重しとする思想があったのだ。中世武士には、主に忠節を尽くすか、仏神に忠節を尽くすか、二つの道があった。中世人にとって仰ぐ権威は二つありえた。大多数はそのいずれにも徹しきれず、両方に曖昧な形で従っていた。p.58-9

 僧の「もののふの道」。確かに人間同士の約束より、神や仏との約束のほうが破られる恐れは少なそうだよなあ。少なくとも、その神様の存在を信じられれば。

 寺社勢力の基盤として重視すべきは商工業である。寺社勢力は、産業や金融・貨幣経済の支配者として境内都市を形成した。境内都市は第二次・第三次産業に関しては朝幕の追随を許さない。だが寺社の農業的基盤も決して小さくはない。今日では大きな水田地帯に見えない奈良県だが、大和王権国家統一をなしとげたのは、卓越した米所だったためである。日本の水田面積において大和が占める比重は、近世より中世、中世より古代のほうが、ずっと高い。中世でも稲作の中心は西国だ。今日の米所、新潟・東北などは、それほど米が取れなかった。江戸時代の新田開発によって、水田面積は全国で約七〇パーセントも、飛躍的に増えた。これを逆に言えば、中世の日本は必ずしも農業社会といえないことになる。古代・中世は大堤防工事をする技術がなく、大河川の近くに水田を造ることができなかった。山からのわき水や小河川をそのまま利用できる地域に、水田の多くは立地している。p.63-4

 まあ、新潟平野や仙台平野の稲作は、近世に入ってから推進されたものだしな。大和や越前などの、京都近くで、寺社勢力の影響が強い米所のシェアは、現代から考える以上に高かったと。まあ、コメってのは、実は「商品作物」の性格が強いからな。あと、需要の大きな巨大都市が京都しかなかったことが、西国に米所を偏らせた側面もありそう。
 稲作以外にも、畑作があるわけだから、中世が「農業社会といえない」ということにはならないと思うが。

 細川頼之に代わって管領となったのは斯波義将である、その父高経は越前で活躍し、新田義貞を討取った人物で、身分の上では尊氏と同格の一族待遇を自負し「斯波」と名乗らず「足利」と名乗り続けた実力者だ。ところが越前にある興福寺領の坪江・河口荘を侵略したことが彼の運命を変えた。一三六四年、南都が強訴し高経の屋敷に迫り春日の神木を振り捨てた。彼は義詮に追放され二年後に越前で憤死した。これを興福寺は春日の神罰と称した。政治史を考えるとき、守護たちの争いばかりを見ていてはだめなのだ。p.73-4

 寺社のパワーのすさまじさ。

 他のあらゆる権威を否定する一味の力は、無数の心が一致するというありえない奇跡に支えられている。神の前では全員が対等になる。学侶・行人・聖の平等を認めず、身分差別をそのままにしたものであったなら、一味はエネルギーを持ちえない。数の力にならないからだ。この場を支配しているのは、古代的な共同体宗教とは明らかに違い、中世にしかない宗教である。p.89

 人間を抽象化して、数として捉える観念が普及する前には、こういう結合のパワーは大きかったかもな。

 国内移民と国外移民は、旧住民にとって言葉や文化の違うニューカマーである点で同じであり、両者の間に本質的な違いはない。都市とは「旧住民と移民がともにいる風景」である。移民(異邦人)のいない大集落は大きなムラである。p.107

 確かに。

 聖は阿弥陀法華経・観音・伊勢・地蔵・大師・熊野などの雑信仰をあわせ持っていた。勧進のためなら、いかなる信仰も柔軟に利用する。専修の正反対、雑修的性格を持ち仏教宗派のどれにも位置づけられないと同時に、どの宗派の要素も持っている。行人・聖の大半は仏教経典などとは無関係に生活している。熊野那智青岸渡寺粉河寺・興福寺南円堂を中心とする西国三十三所観音霊場信仰、伊勢信仰、大師信仰(聖徳太子は元三大師・弘法大師などと混淆している)、法華経信仰などの広がりも、高野聖と同列の聖による布教の結果であった。こういう雑信仰こそが時代精神なのだ。仏教思想、高僧の著作を読まなくても寺社勢力を論ずることは十二分にできるのだ。p.113

 こういう雑多な信仰を切り捨てたのが、仏教の弱体化につながっていそうだよな。学僧には不愉快だったのかもしれないが。

 後世の系図で武士は王臣の子孫ということになっているが、その証拠はほとんどない。源氏は尊氏の代には清和天皇の子孫とされている(頼朝の頃も)。だが義家の祖父頼信は、石清水に捧げた願文で自らを陽成天皇の子孫と称しており、源氏の嫡流においてさえ系図に混乱がある。本当に王臣の子孫か、地方勢力が自称しただけなのか、実はそれはどちらでもよいことなのだ。彼らがのし上がるのに1実力2武官の官職3系図(真偽にかかわりなく)の三つが必要だったわけだ。もちろん絶対条件は1だ。23は後からついてくる。p.131

 いい加減なものだなあ。伝承が混乱していたんだな。

 さて私的に見える日吉社の使も、公的に見える造酒司の使も、ともに私的かつ公的である。課税権は国家のみが持つというスジ論から言ったら、課税の正当性自体がそもそも疑わしい。しかしあらゆる組織が私的に分割されている中世国家では、既得権と化した「私的な制度」が積み重なって「公的な制度」ができているのだ。中世のあらゆる組織もその権限も、近代と違いすべてが私物化された家産である。p.173

 寺社境内の商工業に対する課税の禁止(諸役不入)を明示する第一号史料は、この醍醐寺の史料である。醍醐寺は有力寺社ではあるがその力は南都北嶺に及ばない。ほかに祇園社だけしか史料が残っていないのが残念だが、どこも同様の特権を得ていたと推定される。不入権は国家権力に対しての権利だけでは半分しか意味がない。何かと口実を設けて上納を得ようとする他の有力者の介入に対する不入権でもある必要がある。不入地は、外からの公私すべての検断・徴税吏に対し、排他的に囲い込まれていなければならない。無縁所は「譴責使」(徴税吏)「理不尽の使」(検断・徴税吏両方を指す)などの、役職を帯びた者(帯びていると自称する者)の立入りとその職権の行使を禁ずる場、とういうところにその本領がある。p.175-6

 荘園制は不輸・不入制だという。二つ並べると語呂がよいけれども、両者は全然別のものだ。一般に、荘園制とは年貢(国税)の全部または一部を免除される不輸制度としてイメージされ、不入制のことを考える人はほとんどいない。だが、検断・徴税の暴力を見てきた今は、不入権こそが決定的な意味を持つ権利であることがわかるはずだ。検断はこちらでやるから、検断吏だけには来てほしくない。税はこちらから持って行くから、徴税吏だけには来てほしくない……後者はサラリーマンにはわからないかもしれないが、商店街の人は大いに納得するだろう。国家権力の重要な柱である警察権・徴税権が、個々の不入地に結果として委任された。土地制度の問題よりも公権が分割されたことの意義のほうがはるかに大きい。この分権的性格が中世国家の本質だ。そういうあり方は後の東国政権鎌倉幕府の成立や、戦国時代の群雄割拠に始まるわけではない。p.179-180

 メモ。中世国家のあり方についての話。

 思うに、網野は「権力からの自由」や「「無力な個人」が勇を振るって権力に対抗する」という物語を描いたのであろう。読者は、親族や所属組織からの自由を求めつつ、結局そこから脱出する勇気を持たなかった人々(現代管理社会の住人、私もそうだ)であろう。冒険物語には感情移入しやすい。しかしもしこれが物語でなく自分自身の問題だったら、こんな頼りない所に駆込む気にはならない。p.197

 網野は「自覚化された無縁の原理」を力説するが(網野二四五頁)、これは自覚や宣言を金科玉条とする知識人的偏見を免れない。無縁の人になった後、どうやって食べていくか、無縁の原理を否定したり、有縁を無理強いしてくるものに対してそう応ずるか。宣言だけでは何の裏付けもない。逆説的だが、本当に縁を切るためには、様々な武器を持たねばならない。それはあるいは、「権力」とも、「有縁」とも、見えてしまうほど大きいものである必要がある。無縁の場を確保するための力、駆込み人を保護できる集団としての力……力の中身は武力だけではない。経済力・宗教的権威・文化力……そこにつちかわれたすべてである。寺社勢力を除いて、このような資格と力量を持つものはない。無縁所と寺社勢力は同じものだ。慎重に言うことにしよう。無縁所の必要十分条件を備えているのは、寺社勢力以外にはない。p.199-200

 「無縁所」はそれを確実に維持するだけの力を持つと「権門」になってしまうと。