吉田歓『古代の都はどうつくられたか:中国・日本・朝鮮・渤海』

 前半は隋唐時代の都城への変遷の流れを、漢時代からたどっている。そして、後半は日本や朝鮮三国、渤海といった東アジアの諸王国が唐の最新文明という情報をどのように取捨選択して、取り入れて行ったかを描く。
 中国諸王朝の宮殿といっても、時代によってその姿は大分違うこと。平城京平安京が取り入れたような、整然とした碁盤目状の首都というのは、隋唐の段階になって始めて成立するというのが興味深い。そのような整然とした都城は、『周礼』に後に付け加えられた考工記の記述がモデルとなっているが、その成立は前漢の時代に発見され、その後影響力を持つようになっていったものであったこと。結果、『周礼』の記述が現実に影響を及ぼすようになるのは、かなり後で、南北朝時代西魏の時代から現実に生かされるようになり、隋唐の時代に完成にいたる。
 漢の時代の宮殿は基壇のうえにつくられた豪壮な建物だが、首都全体は不整形なものであったこと。三国時代の魏が「太極殿」に東堂・西堂を付け加えたスタイルを創出し、それが魏晋南北朝時代を通じて、正当な宮殿のスタイルとして継承されていく。宮殿が都の北の端に位置するスタイルは、『周礼』を忠実に取り入れたものではないんだな。
 歴史のなかで徐々に形成されていく状況が興味深い。


 残りは、東アジア諸国の宮殿に対する、中国の宮殿の影響。渤海と日本が、自分たちの生活スタイルを維持しつつ、唐の都城の地割をかなりの程度取り入れていた。それに対し、朝鮮半島高句麗百済新羅の三国は、山城とふもとの二重スタイル、創業の地からうごけず都城を形成しなかったというような、独自のスタイルをとったこと。また、渤海の上京が唐長安城の忠実なコピーであったことなどが興味深い。
 日本に関しては、律令国家を形成する過程で、小墾田宮、前期難波宮藤原京平城京長岡京平安京と遷都を繰り返しつつ、形を変えていったことが指摘される。