平林章仁『謎の古代豪族 葛城氏』

謎の古代豪族 葛城氏(祥伝社新書326)

謎の古代豪族 葛城氏(祥伝社新書326)

 先日読んだ『道が語る日本古代史』で紹介されていた、風の森峠で発掘された葛城氏が紀ノ川方面と連絡のためにつくった道路の遺跡で、葛城氏に興味を持ったら、ちょうどいい本を図書館で見かけたので借りてみた。
 記紀に記された伝承や考古学の発掘成果をもとに、氏族間の提携関係を析出していくところなどは興味深い。葛城山東麓を拠点とする豪族が、紀氏や息長氏、吉備氏、日向諸県君氏といった各地の豪族とネットワークを形成し、倭国の大陸外交を主導。渡来人を中心とするさまざまな技術を優先的に確保していたこと。その力を背景に大王家の姻族となり、倭国の政治を主導したこと。雄略天皇の時代に、大王家への権力集中の動きの中で、各地の豪族との提携関係を断ち切られ、葛城氏政権が崩壊していったこと。しかし、葛城氏政権の解体は、朝廷の権力構造も破壊し、雄略死後には混乱が続き、5世紀の天皇家は断絶。継体朝への政権の変化が起きることとなる。葛城氏が行なっていた儀礼が朝廷の儀礼に取り込まれた可能性や葛城坐一言主神社にかかわる伝承から朝廷と葛城氏の対立関係、鴨氏と葛城氏の関係なども興味深い。葛城氏の本拠地に関しては、御所市南郷遺跡群として発掘が進んでいて、いろいろと遺物が出てきているのがおもしろい。
 伝承では当主自身が出かけて、朝鮮半島での活動を行なっていたように書いてあるが、実際にはどのようにして活動が行なわれていたのだろうか。
 奈良県の御所市や葛城市をはじめ、関西一円の地図と首っ引きで読む必要がるのが少々めんどくさいところか。ずっと、ネットの地図を表示しっぱなしで読んでた。


 以下、メモ:

 ここで注目されるのは、天皇の礼を尽くした要請も拒否し、対等にふるまう皇后・磐之媛像が描かれていることである。
 仁徳天皇磐之媛が、必ずしも親和的な関係でなかったことは、『記』の所伝でも一貫している。その原因は、磐之媛の嫉妬深い性格にあったと伝えるが、個人的な感情のもつれだけだったのか疑問であり、そこに当時の葛城氏の権勢が示されているともいえよう。p.58

 二人の関係に、天皇家と葛城氏との緊張関係が反映されていたんだろうな。新たなキサキを入れることは、葛城氏系の天皇で独占する政策の破綻につながるだろうし。実際、葛城氏系の後ろ盾ではない雄略によって、葛城氏権力は崩壊したわけだし。

 ここで興味深いのは、清寧天皇星川皇子は母系が等しく、葛城氏系であることである。このふたりが皇位を争ったということは、後背勢力となる母系の集団がふたりの争いを調整できない状況にあったということでもある。この時点で、葛城氏と吉備氏の連携が破綻しており、おそらく葛城氏は滅んでいたと思われる。p.157

 葛城氏という重石がはずれた結果、調整機能がなくなったということか。

宋書倭国伝には、四七八年に倭国王の武(雄略天皇)が長大な上表文を認めて、遣使朝貢してきたと記録している。その上表文には、父祖の功績や高句麗の妨害により百済経由の遣使が困難であることなどを記しているが、これを最後にして倭国の中国南朝への遣使は途絶えてしまう。
 日中交渉の再開は推古天皇八(六〇〇)年の遣隋使であるから、実に一二〇年以上も日中の国家間交渉は中断する。これらのことから考えて、雄略天皇の時に対外交渉の基本方針に大きな転換があったに違いない。
 くしくもそれは、ヤマト王権の対外交渉を主導した葛城氏滅亡の直後のことである。高句麗南進による百済の一時的滅亡も含め、葛城氏の滅亡がヤマト王権の対外交渉の基本方針や、その権限の一元化をめぐる動きの中での出来事であったのとの考えが、あながち的外れでないことを示している。p.172

 外交方針の変更か、ヤマト王権そのものの混迷かわからないが。