中野三敏『和本のすすめ:江戸を読み解くために』

和本のすすめ――江戸を読み解くために (岩波新書)

和本のすすめ――江戸を読み解くために (岩波新書)

 日本人に「和本リテラシー」をよみがえらせることを主張し、その手引きとして和本の基本的情報を網羅した本。江戸時代の出版事情、和本の「身分」、外形的な解説、絵入り本の解説、海外の和本事情などが解説される。一読すれば、江戸の読書文化の大まかな見取り図を得られる本。しかし、変体仮名って、なかなか慣れないんだよなあ。5割くらいは読める感じだけど。変体仮名を頭に叩き込むだけで、かなりの時間コストがかかりそうな感じなんだよな。あと、やはり和本は買おうとするとけっこう高いのが難点か。文庫の倍以上はするわけだし。
 整版の印刷物のイメージしかなかったが、江戸時代には写本がかなり広範に流通していて、そちらは出版規制の埒外でかなり自由に言論が流通していたこと。さらには、享保の改革などの出版規制が、単純な言論の規制でなく、版権などの制度的基盤を整備し、流通商品としての書物の発展に資したという指摘も興味深い。そういえば、一度、寄贈された旧家の蔵書の整理を手伝ったことがあるけど、確かに木版印刷の本よりも、木版印刷の本を写した写本が多かったな。後で題名を調べると、普通に流通していた本だけど、やはり高いから自力で写していたのだろうな。あとは、木活字が近世の後半には、自費出版のツールとして復活していたなんていう話もおもしろかった。あとは、絵入り本に使われた拓版という手法も興味深い。こっち方面はいまだに高いんだろうけど。
 江戸時代の書物の世界って本当に豊饒なんだな。で、変体仮名を読めない人間はアクセスできない間に、どんどん廃棄され、海外に流出していくと。和本の勉強をするなら、異版を多数そろえたアメリカあたりの大図書館や美術館の方がよっぽどはかどるというのは、悲しい話だな。


 以下、メモ:

 寛政前後(一七八九年頃)からは、一時逼塞状態にあった木活字による印刷が、再度、素人出版の簡便な方法として復活し、相当な流行をみせて幕末、明治まで刊行され続ける。現存数はおそらく千五百種ほどにもなろう。古活字版と区別して「近世木活」とよばれることが多い。木活字と植字盤さえあれば至って簡単に印刷ができるので、素人が私家版として刊行できた。しかし板木が残らないので、営利には向かぬという理由から、官権も出版規制の埒外と認めて放置した。そのため、ある種の規制外出版物としての意味も担うようになり、注目すべき領域となっているが、これは第二章一〇五頁以下に記すことにする。p.21

 近世後期から木活字が復活。しかし、一般に活字が流通しているとかならともかく、自力で作ることになるなら、整版と大して手間は変わらないような気がするが。むしろ規制外出版であったということが大きそうだな。

その他、水戸・和歌山など徳川御三家の御膝元、また大大名のの城下町などを中心に進展し、文化文政期(一八〇四-三〇)頃からは全国的に広がって、地方文化の温床を形成することになり、その出版物も「田舎版」と称されて独特の様相を呈するが、それについてはまた六七頁以下に述べる。なお、それらの地方版については朝倉治彦・大和博幸共編『近世地方出版の研究』(東京堂出版、平成五年)に詳しい。p.28-9

 メモ。熊本でも出版が行なわれたらしいが。民間ではどの程度だったのやら。

 確かに天和から元禄頃にかけての世相は、多くの流言蜚語めいた噂話や心中事件などが取り沙汰されることは多かったが、噂を流した張本人が処罰されたことはあっても、とりたてて出版物が絶版や売買禁止に処された例は見えない。しかし、こうした禁令に反応した作者や板元に、かなり徹底した自主規制の気持が働いたのは確かで、例えば西鶴の作品などにも、その痕跡は種々指摘されたりもしている(谷脇理史「西鶴の自主規制とカムフラージュ」等)。p.43

 フランス王権あたりと比べると、確かに出版規制はゆるいとは言えそうだが。しかし、禁令が出されれば、強力な自主規制が働き、文化活動の枷になると。

○ 神代といふは太古の別名也。野に依り穴に住みて衣服もなく火食もなし。今の奥蝦夷の地、並びに東方亜墨利加の辺地など、神代といふべし、汝等神代といへば滅多無性に有難がれ共、我は然らず、神代は一向羨むべきものにあらず。
(中略)
○ 日本の開闢、漢土に後れたり共、さのみ本朝の瑕疵にも非ず。又日本の開闢、唐土に先つとも日本の名誉とも成るべからず。開闢の先後を争ひ、日本は万国の本国などと誇耀するが如きは、皆小智小見のなす所にして、大人のいふべき事にあらず。p.97-98

 無名の洋学者である片山松斎という人物が平田篤胤国学を批判して書いた『国学正義編』という書物の紹介。19世紀初頭の人物だが、ずいぶんヨーロッパっぽい歴史観を身につけているんだな。先史時代には穴居生活をしていたとか、日本よりも欧米風なものの見方に感じる。先住民に対する偏見も。
 あと、歴史の発展の早い遅いが、優劣に直結しないという指摘もおもしろいな。半万年とか、皇紀何がしとか言っている人々に聞かせたいもの。

 一つだけ私見を付け加える。江戸の板本の種類は広大で、内容的におそらくないものはないはずと述べた。ただし私がこの五十年間に見たことのない分野が一つだけある。それは意外にも「盆栽」の板本である。仕立て方や図録など、いずれをとっても未だに専門の刊本の存在を知り得ない。盆山や鉢物といった、奇石を主として、植物や砂や造り物を配置した「鉢山図絵」や「占景盤」「盆山百景図」の類はいくつもあるのだが、純然たる盆栽を専門とするものはとにかく見たことがない。朝顔や万年青・福寿草など観賞植物の栽培法や図録はうるさいほどあるのにである。それでも写本はあるかもしれぬ。また明治以降はそれこそ山ほど出版されているが、確かな江戸期の刊本はついぞ見たことがない。今では欧米にまで有名な江戸の盆栽についての刊本がないのはなぜか。こればかりは未だに私にとっての大きな謎であり続けている。p.173

 へえ、江戸時代の盆栽の本って見当たらないのか。肥後朝顔の起源が不明なのと似たようなものかいな。明治初頭に再構成でもされたのか、秘事とされていたのか。

 翌年の秋にはボン大学での日本学のセミナーに出席を兼ねて、日本研究所の四百点ほどの和書を見た。トラウツ教授収集という俳書や、師宣の『東海道分間絵図』の元禄三年筆彩本・同無彩本・同十六年本・正徳元年本の四種を机上に並べて審らかに比較検討するという、日本国内では考えられない体験もした。
 何故なら、国内ではどこにもこの四種を併せ持つ図書館は存在しないからである。日本では従来、木版本の同一タイトルの本は皆同じものと考えて、複数の同一タイトルの和本を蒐めることをほとんどしてこなかった。ところがドイツではその必要性に既に気づいていたということで、さすがはドイツ文献学なるかなと、やや情けない思いに駆られた。トラウツ教授は昭和十年頃、京都のドイツ研究所長を勤められ、その興味は旅と高野山だったと聞く。ナチス関係者ということで、そのせいかボン大学では、今はやや影の薄い扱いとなっているらしいのは御気の毒だが、「登良宇津」と漢字で刻まれた竹根の蔵書印に、和本への愛着ぶりががよくうかがえる。p.242

 とにかく、日本国内のみでの色刷り絵本の研究の前途は闇であるという感想は、以前から漠然と感じてはいたのだったが、実際に大英博物館ボストン美術館をチラと覗いただけで、決定的とならざるを得なかった。おそらく両館合わせて一万五千冊以上。しかも質においても述べたとおりであれば、おそらく日本国内では二、三十年かかっても果し得ない成果が、この両館に一年ずつの留学を果たせばほとんど達成でよう。これは曲がりなりにも五十年の経験から割り出して確言できる。
 第一の理由は色刷り絵本の研究は、カラー写真やコピーでは絶対に不可能で、とにかく原本の比較検討以外はあり得ないこと。第二の理由は国内の公的機関において版種を揃えるという方針をないがしろにし、さらに普通本(雑本)をあまりに軽視しすぎたために、気づいた時は良質(初版の完本)の本がほとんど姿を消すに至ったことにある。もし色刷り絵本というものが日本の誇り得る文化遺産であるとするならば、これが偽らざる現状である。一体何のための文化行政だったのだろうか。しかし、外国になおこれだけのものが存在するということは、まさに皮肉な福音というべきかもしれぬ。ただし私などはもはや長時間の飛行機を乗りついでの外国訪書旅行にはとうてい耐え得るものではない。後生に期待するのみである。p.249-50

 日本ダメじゃん。
 まあ、英米の一流図書館美術館とは、資金力が段違いというのはあるにしても。なんだかなあ。帝国主義的な蒐集思想の力といった感じだな。異版を徹底的に収集する徹底ぶりは。