椎橋俊之『SL機関士の太平洋戦争』

SL機関士の太平洋戦争 (筑摩選書)

SL機関士の太平洋戦争 (筑摩選書)

 太平洋戦争から終戦後にかけて、蒸気機関車の機関士ないし、機関助手をやっていた人々の証言を集めたもの。
 第一章は、青壮年の職員が大量に軍隊に招集されたため、10代後半の少年が速成教育で鉄道輸送の中核を担った状況を描く。食糧不足の中で懸命に鉄道の運行を行なった状況。兵隊にとられるよりはと、機関士に志願する少年が多かったこと。採用後、庫内手として蒸気機関車の清掃や雑用に使われるが、その中でのしごきやこびりついた汚れを落とすことの大変さ。十数人の人間が寄ってたかって清掃するマンパワーの所要の多さが、蒸気機関車が廃れた理由なんだろうなあ。
 第二章は連合軍の航空攻撃の中での体験。機関車に関しては爆撃よりも、戦闘機による銃撃の損害が多いという。交通の阻害という点で、優先攻撃目標だったのだろうし、銃撃で効果的な損害を与えるには機関車がちょうどいい目標だったのだろう。しかし、やられるほうはたまらないな。原爆を投下された広島長崎への救援活動の体験談も。
 第三章は鉄道連隊に召集された人の体験談、第四章は岩手県の山田線で昭和19年3月に起きた脱線事故の話。これらは特定の人の体験談。鉄道兵に国鉄職員が意外に少なかったというのも、人的資源活用という点では変なやり方だよなあ。あと、戦時輸送の負担が大きかったのだなとか。
 第五章は終戦前後の樺太ソ連軍が侵攻してくる中での民間人の疎開輸送の話。ソ連軍の空襲や潜水艦による民間船攻撃の中で、各地の民間人を非難させ、北海道へ輸送する努力。さらには、北海道に侵攻してくるという噂の中で、稚内周辺から民間人を奥地に脱出させるための鉄道運行の努力。木材や石炭、漁業等のさまざまな資源が大量に国内に持ち込まれていた状況。稚内桟橋にあふれる避難民とか。
 第六章、第七章は戦後の鉄道輸送。終戦によって、中国人・韓国人の炭坑への動員が解除され、石炭の供給が低下。蒸気機関車に向かない石炭しか供給されなくなり、運転に苦しんだ状況。復員兵や食料確保で動く人々が殺到し、パンク状態の鉄道。自前で石炭を確保すべく炭坑に従業員を送り込んでいた話。さらには、戦時設計の耐久力が低い機関車が、戦後、爆発事故を頻発させていた話。連合軍向けの輸送。海外からの引揚者の鉄道輸送など。引揚者には、特別列車を運行し、他ではすし詰め状態の客車の中、引揚者は全員が座れるように配慮されていたとか、移動中の食料の配給の話も興味深い。
 現場の人々が体験した、さまざまなエピソードが興味深く、また、平易に読める書物。


 以下、メモ。

 しかし、戦局が深刻化するにつれ、青壮年世代の応召が相次ぎ、機関区からも機関士、機関助士が続々と入営する事態となった。人手不足に苦慮する輸送現場の穴を埋めたのは年少者である。国民学校高等科を卒業したばかりの一四-一五歳の少年が機関区に就職し、即席教育を受けて一年で機関助士、四年弱で機関士を拝命した。すなわち、中学生の機関助士と高校生の機関士の組み合わせである。普通、炭水車(テンダ)の石炭取り出し口からボイラの火室まで、普通は両足を踏ん張った姿勢のままシャベルで石炭をくべるのだが、一五歳の機関助士は背丈が足りず、一歩歩いて投炭したというから、みじめな光景が目に浮かぶ。p.17

 うーん、こわい。

「自宅から通っているなら近所から野菜をもらうこともありますが、配給だけに頼る寮の食糧事情はひどかったですよ。配給米は途中で横流しされて、本来三合入るべきものが寮に支給されるときは二合になっていたりしてね。昼の弁当といっても小さなサツマイモが二本入っていればいい方で、朝御飯も食べていないからその弁当も機関区に着くまでに食べてしまう。結局、昼飯は抜きですよ。あのころは何か食べるものが落ちていないかと下を見て歩いている人ばかりでしたね。どんなものでも食べる。そういえば、盛岡の町で野良犬や野良猫を見かけることはなかったですな」p.39

 横流し… 戦時中の闇経済ってどの程度の規模だったんだろうな。

 記録によれば、昭和二一年六月五日から七月二九日にかけて四三隻の貨物船が入港し、およそ一一万人の満州引揚者が祖国の土を踏んだ。出港地はすべて葫蘆島。この輸送にはアメリカから貸与されたリバティ型貨物船(上陸用舟艇の機能を持たせるため平底構造)が投入されたが、その理由は米中ソの政治的な駆け引きによるものだった。p.229

 なんか、LSTとリバティシップがごっちゃになっているような。LSTは海岸に乗り上げて揚陸するから平底だけど、リバティシップは省力設計とはいえ貨物船だから、平底ってことはないと思うが。どちらも供与されて、復員輸送に従事したから、混同されているのだと思うが。