坂井洲二『水車・風車・機関車:機械文明発生の歴史』

水車・風車・機関車―機械文明発生の歴史

水車・風車・機関車―機械文明発生の歴史

 比較的最近まで使用されていた、非化石燃料動力の機械を解説した本。L・T・C・ロルト『工作機械の歴史:職人の技からオートメーションへ』asin:4582532039を理解するには必須。西欧の工作機械がどういう技術的背景の下で発展したのかを理解できる。様々な付帯的な調整機構の解説がおもしろい。
 一方で、粗雑な日欧比較が台無しにしている感が。ネット上でざっと探しただけでも、いろいろと出てくるのだが。あと、歴史性の欠如も気になる。極論すれば、中世にある機械は、たいがいローマ時代には存在する。あと、扱われる機械が17-19世紀に製造されたものだが、その間に「蒸気機関」がいろいろと世の中を変えてしまっていることは重視するべきだと思う。18世紀には、水車や風車と並行的に発展し、石炭の産出量を増加させ、森林資源の製鉄原料への利用を容易にするなどの変化があったわけで。ドイツでは、その効果は後れて伝わったであろうとは言えるが。そのあたりの歴史のアクセントが見えない。
 まあ、ドイツの全域で、水車をはじめとした木製の機械類が高度に発展し、津々浦々まで広がっていたというのは瞠目すべきことではある。民間に蓄えられた技術の蓄積のレベルの高さ。石臼を回すにしても、回転軸にいろいろと仕掛けて、麦がなくなったら自動的に止める機構とか、麦の投入量を調整する装置とか、臼から出てきた粉を選別する篩を振動させるとか、様々な工夫がすごい。


 第一章は水車による製粉。第二章は風車。台風車・塔風車・矢筒風車とだんだん軽くしていく工夫があったとか。第三章は製材水車。枠のこぎりを水車の力で上下させ、丸太を板に挽く。オランダの造船業で風車動力による製材が発展したことは聞き知っていたが、こういう風になっていたのだなと。材木を送り出す仕組みがおもしろい。機構を単純化したバッタラのこぎりやコッツンのこぎりも興味深い。
 第四章は水力を利用した様々な産業の話。鍛冶・搾油・製紙・針金製造。さらには蒸気機関を利用した耕作など。どれも比較的新しい時代だよなあ。あと、ルール地方に金属工業が発展した要因として、水力を利用できたのが大きいという指摘が興味深い。その上で鉄鉱石の産地であったこと。石炭が重要になったのは後と。
 第五章は畜力利用。耕作一つとっても、犂だけでなく、馬鍬やローラーで土を砕く工程が必要だったこと。19世紀当たりになると、種まき・収穫・脱穀も畜力や蒸気動力を利用した機械が導入されるようになったと。蒸気機関による脱穀って、すごいな。ただ、日本の稲では千歯扱きや歯が生えたドラムを利用したのに対し、麦では押しつぶすような仕掛けになったのは理由があるのだろうか。ポンプや土砂運搬設備、馬車などが取り上げられる。シャシーとボディーが分けられていたとか、郵便馬車システムの話がおもしろい。
 第六章は回転力利用の技術ということで、雑多に。大型の錐から、圧搾機、食品加工用の様々な道具、紡績など。ただ、回転力利用とねじ式の道具を一緒にするのはどうなんだろうな。微妙に出自が違うように思うのだが。木工用のろくろから旋盤への発展、木製時計、様々なからくりなどが紹介される。木製時計に関しては、森杲『アメリカ職人の仕事史』asin:412101328Xで紹介されているが、ドイツも産地だったんだな。
 さまざまな機械が詳しく解説されるので、楽しめる。永井, 健太郎; 中村, 修; 畑中, 直樹; 中島, 大; 友成, 真一「イギリスに見る動力利用の変遷−水車と蒸気機関−」で紹介されるように、蒸気機関ともつれ合うように発展していったものではあるんだが。


 以下、メモ:

 しかしそのことより今回、何より圧巻であったのは、石臼の置いてある床の下にその姿が見えている木の歯車の装置であった。木の歯車などというものはわたしたち日本人にとっては見たこともない機械装置で、歯車という点では金属の歯車と同じことであっても、まずその大きさに意表を突かれてしまう。歯車には違いないのであるが、とにかく木製であるというのが異様であるうえ、異常に大きいのである。これこそ日本人がかつて体験したことのない初期段階の機械文明というものであって、明治以降に日本に流入してきた機械文明は、すでに洗練された二次段階の機械文明だったのである。p.26

 これどうなんだろうな。探せば、複雑な木製機械装置は世界中で見つかるような。まあ、日本に入ってきた蒸気機関が、開発後150年以上たった、洗練されたもので、結果として在来の機械装置をあっという間に駆逐したのは確かだろうけど。でも、明治の産業革命でも、初期の動力は水車だったりするんだよな。諏訪地方の繊維工業とか。

 その水洗いも不要になったのは一八七〇年代に麦粒をブラシで磨くブラシ機(Burstmaschine)というものが発明されてからである。麦は米とは違って薄皮があったり、縦細のひだがあるだけに、やはりいろいろと大変なのであった。p.45

 そんなにめんどくさいのか…

 「製粉風車」という言葉が世界で初めてみられたのは、紀元後六四四年のことである。けれどそれは、あるペルシアの奴隷が製粉風車をつくることに巧みであった、という話だけのことで、その風車がどんなものであったかは分かっていないのだという。
 ついで西暦九五〇年になると、アフガニスタンとの国境近くにあるペルシアのセイスタンという所に製粉風車がある、という記述が出てくる。そして一二七一年には、そのセイスタンの製粉風車の描写と図が残されているのである。
 それによると、それはレンガ造りの円筒形の二階建ての建て物で、その一階は前後に窓が開いていて風が吹き抜けるようになっており、そこには水平方向に回転する風車が取り付けられていた。その風車の羽の数は六−一二枚で、羽根には木綿の布が張ってあった。石臼のほうは二階に置いてあり、一階の風車の回転軸で回るようになっているのである。p.81

 ペルシアの水平風車。

 さてこの塔風車ののあるケムペン市では、かつてこの町を所有していた領主が、一三七二年に、町民たちに対して塔風車を建てるように要望したのであったが、町民たちは多額に費用にすぐには応じきれず、それが完成したのは一四八一年のことであった。ではそれまではどういう状態であったかというと、町の外に木製の台風車があっただけで、もし敵が攻めてくれば、簡単に焼き払われてしまう恐れがあったのである。
 ところがこの堅牢な塔風車でも、一六四二年には、数日間にわたって敵の砲火を浴び、そのうえ町が占領されるに及んで、屋根をはぎとられてしまったのである。その後一六五九年の記録によっても、まだ風車は無残な姿をさらしたままであったというが、一六六〇年になって、ようやく元の姿にもどり、再び製粉することができたのであった。戦争の多かった昔を生きのびた製粉風車には、それなりの苦労の歴史が刻まれているのである。p.94

 製粉用の風車が高価な設備であり、それを建設するにも、修理するにも、時間がかかるものであったことが分かる。しかし、時間軸がゆっくり過ぎて引くわー。計画から建設まで100年とか。500年以上使い続けられたとか。

 それにこの溜め池を見て初めてわたしは、なぜ川沿いの工場が、ぽつんぽつんと一軒ずつ離れて建っていたかの理由も理解することができた。各工場は自分だけの専用の大きな溜め池を持っていなければならないうえに、上掛けの水車を動かすには水位にそれなりの落差が必要であるから、隣の工場とはその落差を持ちうるほどの距離以上に離れている必要があったのである。ルール川は日本の山地の川のように急流ではないだけに、その分も隣とはより離れていなければならない理屈である。
 このように工業地帯として求められた動力源は、以前は石炭や電力ではなく、川水で動かす水車なのであった。けれどもこのルール地方が、ヨーロッパ最大の工業地帯に発展しえたその理由には、この川水の豊かさより、やはりもっと決定的な要因がそこにはあったのである。ではそれは何かといえば、それはわたしが中学で習った二つの地下資源のうちの石炭ではなく、もう一つの鉄鉱石のほうなのであった。このあたりは、ヨーロッパでも群を抜いた鉄鉱石の産地だったのである。p.160-1

 まあ、中世にも水車の水利で争いがあったというしな。

その他には羊や山羊の畜舎に溜まる糞も貴重な肥料であったし、人糞尿ももちろん使用した。日本の学者のなかには西洋では人糞尿は肥料にしなかった、と説く人がいるけれど、これは誤り。大都市のパリやウィーンなどでは早くから立派な下水道が発達し、これに人糞尿も流し込んでいたし、町のできはじめの頃には、どこの町でも人糞尿や家畜の糞尿の処理がうまくいかず、町なかに糞尿がうず高く溜まっていた、という事実もあることにはあったけれど、農村では人糞尿は貴重な肥料であったし、町の近郊の農家は、昔の日本と同じように、町の家庭へ人糞尿を汲みに行っていた(拙著『年貢を納めていた人々』二九−五一頁)。p.199-200

 パリが汚かったのは、人口の急増に対して、インフラの整備が間に合わなかった側面も大きかったんだろうな。

 その昔はカール大帝(七四二−八一四)でさえ、旅行には騎馬にするか牛車に乗っていた、というのであるから、この当時ではまだ馬に引かせて旅するほどの車体はつくられてはおらず、道路もまた不適当だったのであろう。ヨーロッパでも一二世紀初頭までは、旅行用の車の牽引力は馬よりも牛の方が主体であった。p.229-30

 へえ。スピードを求めないなら、牛の方がパワーがあったのかもな。そういえば、ローマ時代の荷車は何が引いていたのだろうか。

 では木製の壁時計が作られ始めたのはいつ頃かといえば、それは一七世紀後半頃のことであった。やがて木製時計の生産地として世界的にその名を知られるようになるシュバルツヴァルト地方では、最初にそれが作られたのは一六六〇−九〇年のことであるが、やはり木製時計の生産地となったスイスのダボスシュヴァイツ地方では、その年度は明確で、両者とも同じく一六七九年のことであった。そしてその他の地域の木製時計の生産地でも、だいたい同じ頃に作られ始めている。p.297-8

 木製時計か。逆にいうと、この頃にそれだけの需要が出現したってことだよな。どうしてだろう。