ピーター・ランボーン・ウィルソン『海賊ユートピア:背教者と難民の17世紀マグリブ海洋世界』

海賊ユートピア: 背教者と難民の17世紀マグリブ海洋世界

海賊ユートピア: 背教者と難民の17世紀マグリブ海洋世界

 ここのところ、『ワンピース』のためか海賊が市民権を得つつあるようだが、本書はそこでマグリブ海賊、しかもモロッコの「海賊共和国」サレー市を扱っている二重三重に変化球を投げてきたところがおもしろかったので読んでみた。基本的には、アナーキズム、過激派への共感という観点から、ヨーロッパからマグリブの海賊に加わった「背教者」たちを評価しているようだが、その観点抜きでも地中海から大西洋岸にかけての海民世界の一体性が見えてきて興味深い。マグリブの海賊が各地の水先案内人の助けを得て、アイスランドアイルランド南端のボルティモア襲撃などを決行しているという史実。そしてアイルランドも海賊の巣窟だったという話。本書はヨーロッパ側の研究文献を元に議論が行なわれているが、北アフリカ現地史料を下にした研究が待たれるな。それが成されて、初めて中世から近世のヨーロッパ海洋世界の全貌が見えるのではないだろうか。
 ヨーロッパの表の海の世界は格差が激しく、下層の船員は海軍だろうと、私掠船だろうと、非常に酷使されたこと。これが、多数のヨーロッパ人がキリスト教を棄て、マグリブ海賊に身を投じた理由だったと著者は指摘する。一方で、海賊はカリブ海にしろ、マグリブにしろ、より平等主義的で獲得物の分配は船員に手厚かったことが指摘される。経済難民としてマグリブに渡った人々は、現地での生活の内に、地元社会の宗教世界に取り込まれ、同化消滅していくことになった。当時は各国語が混合した言語が話されていたようだが、現在には残っていないという。海賊に連れ去られ、奴隷とされた人々も、生活苦で死亡した人も多かっただろうが、このような形で同化されていったのではないかと指摘する。そういう意味では、文化史的にも興味深いかもな。
 あとは、オランダがこの街と以外に深い関係を維持していて、むしろサレー側が関税などで強く出ると譲歩するような経済関係があったというのも興味深い。
 ただ、参考文献と注のところは編集が甘い印象が。


 以下、メモ:

 金欲渦巻く長い歴史のなかで、アルジェはあらゆる種類のいかさま、反乱、暴動、腐敗、政治がらみの殺人、騒擾がはびこっていた。しかしどういうわけかつぶれずに繁栄した。その統治形態を「暗殺による民主主義」とまでいう者すらいる。しかしアルジェは、一七世紀当時の(どの世紀の)ほかの国家と比べても腐敗が多く暴力的だったといえるのか? そんなにめちゃくちゃだといえるのか? たとえばヨーロッパの君主国は野蛮すぎて、仮にも自由を獲得することができるとしたら、それは何らかの暴力的手段に頼らざるを得ない上に、自由を手にすることができる者も少数に留まっていた。にもかかわらずヨーロッパの君主国はこのことを鼻にかけていたが、アルジェはこんな国々より野蛮なのか? 史料群(これはヨーロッパの旅行者の手になるものであるということを覚えておかなければならない)は、否定的な部分を誇張し、悪意ある戯画として私たちに印象付けているのか? 私の推測によれば、この街の日常生活は、その長い歴史のなかで、他のどんな人間集団の日常生活と比べても、それほど暴力的なものではない。しかしアルジェの異なる点は、その経済自体が境界の外に対して暴力を遂行することによって成り立っていたところである。これこそ海賊の成せる業であった。現実には、アルジェはヨーロッパやイスラームの君主国より民主主義的であった。この二つの特徴は何らかのかたちでつながっているのか。このことはまだ疑問にとどめておきたい。p.52-3

 むしろ、海賊時代のアルジェは安定していたという話。

 背教とは「異端」の特殊ケースであると考えられる。それにレネゲイドの場合には、文化移転が起こったことが明らかな場所がある。それは海洋技術の領域である。レネゲイドは単に、「丸型船」と先進的冶金技術をイスラム世界に伝えただけでなく、アストロラーベといったイスラームの航行時数計測技法およびその装置をヨーロッパ人水夫に伝えたのかもしれないと考えてよい。このように薄まった「東洋」と「西洋」の境界がもっとも顕著に確認されるのはイスラーム・スペインであり、ここでの文化相互浸透が最終的にコロンブスを発見した。こうしたい過程が一七世紀にいたるまで続いたのは確実だ。私たちは、こうした技術の伝達の過程に身を置いたとしても、精神的変化を被ることはなかったと考えることに慎重であるべきである。思い出してみよう。航海技術に長けていたために魔法使いだと思われたあのスミルナ出身のユダヤ人船長のことを。水夫の交易は神秘に包まれていた。その上、(砂漠の遊牧民のような)船乗りは、正統派であることが疑われていた男たちであった。p.252-3

 文化交流のあり方。まあ、別の文化の場に身をおけば、自身も変化していくわな。

 一七世紀後半から一八世紀にかけて、ニューヨークはアフリカ、北アフリカマダガスカル、インドなどの異国的文化に影響されていただろう。マダガスカルからの多くの奴隷がマンハッタンで暮らした。彼らのことは、一七四一年の聖パトリックの日[三月一七日。聖パトリックはアイルランドの聖人]の、奴隷、先住民、アイルランド人が結集した蜂起の記録のなかにもふれられている。私の知る限り、彼らに関する研究はほとんどなされていない。アメリカは独立後すぎに北アフリカと密接な関係を持った。つまりモロッコが最初の友好国となり、トリポリは最初の敵対国となったのである。ニューヨーク出身でウィリアム・レイという合州国海軍の船乗りは、一八〇三年にトリポリの海賊の捕虜となり、後に大ヒットした捕虜体験談『奴隷になる恐怖 The Horrors of Slavery』(一八〇八)を書いている。レイはむしろ異国の粋な敵に感嘆している。彼は、トマス・ペインやトマス・ジェファソンよろしく、急進的自由思想家として、これでもかと合州国海軍を痛烈に批判し、そのけれんみのない言葉が物議をかもすこととなった。レイは州北部のオーバーン村に蟄居し、ここで詩人かつ月並み哲学者となった。p.269-270

 アフリカなアメリカ。16-17世紀のポルトガルも黒人奴隷が人口の1割を占めるくらいだったから、ヨーロッパの都市社会におけるアフリカ的要素ってもっと重視されるべきかも知れないな。それ以前に、日本人からすると、ロンドンにドイツ人やら何やらがたくさん住んでいる状況がいまいち理解できていないわけだが。