松下孝昭『軍隊を誘致せよ:陸海軍と都市形成』

 師団や連隊の立地と、それが地域形成に与えた影響を、全国規模で描いている。前半は日清・日露戦争に伴う軍拡と、各地域の誘致競争。後半は、鉄道・水道・軍隊をめぐる商業・遊郭など、都市の地誌的な影響を論じている。
 前半は陸軍の軍拡に伴う師団・連隊の増設とそれを誘致しようとする地方都市の動きについて。日清戦争後の軍拡時には、地価の高騰を警戒して秘密裏にことを運ぼうとしたのに対し、日露戦争では各都市の敷地の献納などの動きを利用し、より便利な土地を選ぶようになる。また、時代が下るにつれて、城跡から郊外へと、立地の傾向が変化していく状況も指摘される。
 駐屯地受け入れの論拠として、消費人口の増加による経済効果、交通通信などのインフラ整備の進展などが効用として説かれた。また、このような部隊駐屯地の立地運動の片方に県知事が肩入れした結果、後に議会で政治的対立が顕在化する。あるいは、景気よく献納を申し出たが実施段階で、財源が足りず、減らしてもらう事例も見られる。
 後半はインフラや都市への影響など。
 迅速な動員のために、連隊駐屯地は鉄道ネットワークで接続されるように優先されたこと。舞鶴のように、戦費の流用によって鉄道が建設されている事例がある。一方で、新潟や山陰の連隊駐屯地は、鉄道への接続が遅れたことが指摘される。また、陸軍特別大演習が鉄道の駅の改築など、インフラ整備の契機になったというのも興味深い。熊本でも、特別大演習を契機に道路の整備や神社の設備の整備などが行なわれている事例は散見されるな。
 続いては水道。赤痢コレラなどの水を通じて拡散する伝染病で戦闘力を失う危険もあるので、給水は重視された。特に、大陸での戦争の出撃拠点となった広島・宇品では、日清戦争で疫病が流行したこともあり、国の肝いりで水道が建設された。また、海軍の鎮守府所在地では、独自に軍用水道が整備され、都市には後に分水を受けるパターンが多い。一方で、大規模港湾都市に比べると、陸軍駐屯地立地都市は、水道の敷設が遅い場合が多い。国の補助を受けながら自治体が水道を敷設したパターン、あるいは軍が独自に水道を敷設し、都市への水道設置は遅れるパターンの二者が多く見られるようである。熊本では、熊本城を配水地にしようとして拒否されたとか。
 駐屯地への商業的影響も興味深い。1900年度の熊本市立地の官公署や学校の経費では、軍隊の消費がダントツで大きく、都市経済への軍隊の影響がわかりやすい。また、連隊の駐屯地前は、軍人や軍人家族向けの商店街となる例が多く、鯖江・月寒・新発田などでは、明治大正の商店を復元した図が掲載されている。
 軍隊は各種の納入業者に依存したが、東京などの大手商社、地元の有力商人、あるいは地元の人々の出資による用達会社などの類型があると指摘される。熊本に関しては、明治19年発行の『熊本商家繁盛図録』の復刻を見ると、8軒の陸軍御用達の商家が紹介されている→http://d.hatena.ne.jp/taron/20070518#p3。大倉組支店に、馬糧・味噌醤油・縫製・軍靴の供給業者。このあたりは、他と変わりないようだな。本書では秋田の被服業者の事例が紹介されているが。
 最後は遊郭の問題。「軍隊に遊郭はつきもの」という社会通念があり、軍隊の誘致の際には、遊郭の整備も議論されたこと。軍側にとっても、私娼による売春は感染症のリスクが高く、公的な遊郭の設置は歓迎されたこと。日露戦争時の旭川感染症の調査では、管理が厳しい娼妓と比べると、芸妓や私娼は明らかに性病感染の度合いが高く、軍側の警戒感はわからなくもない。一方で、遊郭の市街中心部の設置には反発が強く、反対論と「必要性」の綱引きの結果が、遊郭の立地に影響したという。また、廃娼県では遊郭の設置が許可されなかった事例もあったという。
 エピローグは、大正以降の変化。第一次世界大戦後の軍縮による師団・連隊の廃止の影響。また、鎮台出自の師団駐屯地では、市内の中心部に軍事施設が立地し都市の発展の障害として、移転が模索されたが、ほとんどの都市では実現しなかったという。新市街から大江への移転が行なわれた熊本は稀有な事例なのだな。まあ、熊本城の軍事施設は最後まで残ったわけだが。また、災害の救援・治安維持の観点から、軍隊の駐屯の意義を論じる姿勢も大正期以降には出現したという。戦後の警察予備隊自衛隊の誘致の話もおもしろい。消費人口の誘致による地域発展という、戦前と同じ論理での誘致が行なわれたこと。旧軍駐屯地は学校などに転用されていたが、移転させる事例もあったことが紹介されている。戦後でもそういうことが可能だったんだな。一方で、戦後は反対派の発言力も増したのがちがいだとか。


 文献メモ:
荒川章二『軍隊と地域』青木書店、2001
荒川章二『軍用地と都市・民衆』山川出版社 2007
上山和雄篇『帝都と軍隊』日本経済評論社、2002
本康宏史『軍都の慰霊空間』吉川弘文館、2002
河西英通『せめぎあう地域と軍隊』岩波書店、2010
熊本近代史研究会編『第六師団と軍都熊本』2011
坂根嘉弘編『軍港都市史研究1:舞鶴編』清文堂出版、2010』
坂根嘉弘編『軍港都市史研究2:景観編』清文堂出版、2012
谷澤毅『佐世保キール:海軍の記憶』塙書房、2013


 以下、メモ:

 このように、土地買収をめぐる問題では、地主らの意向だけではなく、生活の資を奪われる小作人らの動向にまで目配りしておく必要がある。たとえば、第十一師団が立地することになった香川県善通寺村における一八九六年の事務報告書には、用地の買収と価格の評定は最も困難をきわめ、「小作償金に関し小作人の紛議暴挙を見たるなど、痛心したる次第なり」と記されている(『善通寺市史』第二巻』)。小作人への補償問題で、村役場がずいぶん苦労したことがわかる。p.80

 軍隊の誘致には、耕作地を失う小作人対策がいちばん苦労したようだ。結局、どういう形で決着をつけたんだろうな。力ずくで押しつぶしたのか。

 ちなみに佐世保市会では、土着有力者を中心とした協和会と外来の新興商人からなる同志会とが勢力争いを演じていたが、そのほかに海軍系と称される一派があり、吉村もその一員として市政界に重きをなす人物であった(『佐世保政治史』)。この例は、軍港都市の市政界における海軍勢力の影響を注視する必要があることを物語っている。ちなみに呉の市政界においても海軍関係者や御用商人らが寄留派(海軍派)を形成し、土着派と対立を続けていたという(『大呉市民史』明治篇)。まったく未開拓の研究対象である。p.161

 急激に膨張した軍港都市では、土着系と外来系の派閥対立が見られたと。

 既に呉では海軍水道が完成しており、良質な水を豊富に利用することができた。このため日清戦争中には、水船を急造して数珠つなぎにし、たえまなく運行して呉から広島に水を供給したという(『明治の呉及び呉海軍』)。日清戦争は、あまり注目されていないが、水の調達という課題との戦いだったのである。p.166

 日清戦争時には、広島・宇品は安全な水の供給に苦労し、呉から水舟で輸送していたと。