井上勝生『明治日本の植民地支配:北海道から朝鮮へ』

明治日本の植民地支配――北海道から朝鮮へ (岩波現代全書)

明治日本の植民地支配――北海道から朝鮮へ (岩波現代全書)

 北海道大学の古河記念講堂で発見された「東学党首魁」と墨書された頭蓋骨の由来を追うことから、北海道大学の前身、札幌農学校が日本の植民地政策の前衛を担っていたこと。東学党戦争における日本軍の苛烈な鎮圧政策などが明らかにされ、またアイヌの民族的な権利の剥奪にも関わってきた事が明らかにされる。やはり、遺骨が無造作に放置されていたという、最初のかかわりがショッキングで印象に残る。


 頭蓋骨を持ち込んだ「佐藤政次郎」の追跡から、札幌農学校の関係者のネットワークが、朝鮮半島の綿花生産を日本の織物工業への原料供給地にしようと、伝統的な耕作システムを改変しようとする動き、新渡戸稲造などの植民地学者へのつながりを明らかにする。日本の綿花生産が高コスト体質で国際競争の中で衰退する一方、朝鮮半島では粗放な自給作物との混作で市場の圧力によく対応しえたこと。そこに、市場向けの多投入生産を押し付けようとして、強く反発された状況が興味深い。


 第二章では、日清戦争のなかで進行した東学党の蜂起の鎮圧作戦について言及されている。数万人単位の東学党軍に対して、日本側が投入した兵力が最初は一個大隊660名。後備歩兵第19大隊。その後、随時増えて、4000名程度を投入したそうだが、兵力差が大きい。特に、公州では一個中隊220名に対して、東学党側は4万名とか、19大隊の戦死者が1名とか、読んでいてどういうことだったんだろうと首をひねっていた。いくら火縄銃と後装のスナイドル銃と装備に差があっても、この兵力なら、ちょっとセンスのある指揮官がいれば、日本軍部隊は殲滅されそうなものだがと思ってしまう。その要因としては、

 申榮祐さんが『報恩 鍾谷 東学遺蹟』で述べたように、農民軍の戦法は、高地を占め、大軍で山の上から、喊声をあげながら、また銃を撃ちながら駆け下りることであり、この戦法は政府軍や民兵には効果があった。しかし日本軍には通じなかった。ねばり強く反撃された、と指摘している。東学農民軍の大喊声で、政府軍や民兵は退くのが常だった。
 この指摘は次の点で重要である。東学農民軍と政府軍、民兵の戦いでは、朝鮮社会は、双方ともある程度以上の血を流すことはなかったことが述べられているのである。この戦いで流血はもちろんあったのだが、それに対して、一定の抑制を働かせるのが、もともとの伝統社会であった。東学農民軍が、無用の流血を避けるきびしい規律を持っていたことも知られている。こうした暗黙の社会のルールを壊したのは、侵入し、おびただしい殺戮を持ち込んだ日本軍の存在がきわめて大きかったのである。p.149-150

 ある意味では、モラルエコノミー的な蜂起だったのだろうな。これはこれで敬意に値する社会システムではある。一方で、同時期には、アフリカやアジアなんかで、これ以上の規模の死者がでる植民地戦争があちらこちらで行なわれていたわけで、なんというか落差に暗然とするな。日本は戦争をやっていて、朝鮮社会ではある種のコミュニケーションをやっていた文化の差。そして、これだと、日本が関わらなくても、中国やロシア相手の植民地戦争で悲惨なことになったんじゃなかろうか。
 また、この部分は朝鮮側の「物語」に飲み込まれているような気がする。東学を「韓国の民主化運動の始まりを告げた思想として現在高く評価されているp.90」とするが、何らかの人的なつながりを立証できないとさすがに、イデオロギーとしか取りようがないと思うが。また、東学農民軍の捕らえられた兵士を国際法で保護される「捕虜」ではないかと書いているが、「国家」を後ろ盾にしていない集団だから、今でも「捕虜」として扱われるかは微妙な気がする。まあ、これだけの規模の殺戮を行なえば、現在なら「人道に反する罪」で裁かれるだろうけど。
 東学農民軍の従軍者の殺戮には、日本軍だけではなく、朝鮮の地方官が関わっていることも、重視すべきではないだろうか。もともと、東学党が蜂起するだけの、社会の亀裂が存在したこと。政府と東学党は、反目しあう勢力だったこと。もちろん、日本が介入することによって、この亀裂を拡大し、血の雨を降らせたことは確かなのだが。そう考えると、独裁政権による血なまぐさい弾圧の先駆とも評価できるわけで。


 第三章は、アイヌの抑圧に札幌農学校が果たした役割。北海道で行なわれた「実験」が朝鮮半島や台湾などに導入されていったことを明らかにする。朝鮮半島の人々やアイヌを「非文明的」と否定する植民地学者の視線。藩閥政府によるさまざまな私物化・汚職。それによって出現した一部の政府関係者・札幌農学校卒業者による独占的な大土地所有制度の出現。アイヌ人が和人の助けも借りながら、自力で民族共有財産を拡大し、着実に自立的な経営を強化しつつあった状況。それを「保護」の名のもとに、無権利状態に置き、金融手段など自立の手段を奪ったことなどなど。
 また、このような植民地経営の手段は「日本人」にも向けられ、移住者の自立を阻み、大土地所有者の有利な労働状態を維持しようとしたか。文明の名のもとに抑圧を行うというのは、実際には日本国内でも行なわれたんだよな。「サーベル農政」といわれるように、集約的な農業の実施を強要した。結果、日本の農業は高コスト体質・多投入農業に変質し、今度はそれを北海道大学の学長を務めた佐藤昌介は「園芸的過小農業」と指弾することになる。他者への抑圧は、まわり回って、自分たちに返ってくる。
 また、アイヌへの差別への加担を北海道大学関係者や役人関係者が注意深く、歴史から書き落としている事実。


 第四章は従軍した四国の後備兵たちを訪ねた話。東学党の征討や戦争への動員が従軍した兵士や士官にとって負担であったこと。征討に参加した士官の自殺や兵士の貧困など。
 また、東学党殲滅作戦が公式戦史である「日清戦史」から削除されていることの指摘。国際的な目線や朝鮮半島の併合への反発をはばかって、公式戦史に作戦の状況を載せることができなかったことを指摘する。
 新聞に投書された下士官の従軍記や大隊長の講演が威勢の良い、東学軍への蔑視をこめた視線だったのに対し、兵士が記録し、清書した「陣中日誌」の赤裸々な記述が印象的。


 以下、メモ:

 珍島では、播種は条播ではなく点播になったし、除草や間引きはされず、摘心の手入れもされなかった。現在においても、後発の朝鮮側が、先進的な日本農法を受け入れなかったと思われがちである。しかしそこには、現在の私たちにおいても、多労働、多肥料の精農主義の農業が先進的で近代的であるという思いこみがある。日本の綿花生はすでに衰退し、二〇世紀に入ることろには壊滅していたのである。この厳然たる事実をよく考える必要がある。p.54

 第一章で指摘したように、当時の朝鮮は農業の経営面積が広く、入会の草原や湖沼も多かった。草木灰や厩肥などの自然肥料を使って、多用な作物の混作、間作を行なった。労働はまんべんなく投下するのであって、一つの作物に対して多肥料、多労働を投入する日本の農法とはちがっていた。日朝それぞれがその条件に適応する農法だったのであった。
 その点で、佐藤昌介が、日本の精農農法を「過小農」「鋤農」「園芸的過小農業」さらには「侏儒的耕作法」と評していたことを考慮する必要がある。佐藤昌介は、日本の現実の農法を、アジアの模範的農法などとは考えていなかったのである。p.191

 逆にいえば、朝鮮半島では市場向け生産が発展していなかったとは言えるが。あと、もともとの日本の小経営って問屋制家内工業で維持されていた側面が強いからな。

 そうであれば、戦後の一九七二年、アイヌ民族の長老となった貝澤正が次のように語った激しい怒りを、今、私はよく了解できる。「もっとも無知蒙昧で非文明的な民族に支配されて三〇〇年……おそらく世界植民史上類例のない悪逆非道ではなかったかと思う。アイヌは「旧土人保護法」という悪法の影にかくされて、すべてのものを収奪されてしまったのだ」と(「老アイヌの歩んだ道」『アイヌ わが人生』)。アイヌは、すべてを奪われて、無知蒙昧な保護民扱いされた。保護民とされ、民族の尊厳を奪われたのである。「もっとも無知蒙昧で非文明的な民族」という貝澤正の言葉は、和人の当局者や学者に向けて言われた言葉であろう。p.179

 うーむ…

 この『日清戦史 第八巻』が刊行されたのは、一九〇七年一〇月、第二次日韓協約、保護条約調印の翌々年であった。日本は朝鮮を強制的に保護国にした。朝鮮の反日義兵戦争が高揚したのは、一九〇六年からで、とくに朝鮮南部では激しかった。統監府は、朝鮮に親日政権を組織することに努めていた。そのために、一九八四、五年の抗日東学農民軍に対する大弾圧の歴史は、日本にとって不都合だったのである。p.222

 日清戦史から消された理由。