大森潤之助『日本のウランガラス』

日本のウランガラス

日本のウランガラス

 ウランを染色剤に使用し、黄色から緑色に着色されたガラス器の生産者や生産時期などを追及した書物。明治末から昭和前半に、輸出用や日用雑器として盛んに生産されたが、大戦直前にアメリカからのウランの輸出が禁止され、消滅したという。原爆投下によってウランが核物質と知られるまで単なる染色剤の一種と考えられていたため、それを特別に何か別けて記述することがないため、史料からこれがウランガラスと弁別することが難しいそうだ。また、1980年代から1990年代に、「ウランガラス」として特筆されるようになる前は、ただの古いガラス器としか認識されていなかったそうな。日常に使う限りは被害が出るほどの放射線量はないそうだが、薬品を管理していた人は被爆被害にあっていそうな気がする。あと、ペンダントにして、何十年も肌身離さず見たいな事をすると、ちょっと嫌な感じがする程度のベクレル数はあるような。
 30ページ以上にわたって、カラー写真でウランガラス製品が紹介されているが、黄緑色の透明や不透明なガラスがいろいろあって楽しい。食器や酒器、さらに置時計の「側」や化粧品の瓶、花器など紹介されている。また、ポンド瓶という保存容器が盛んに海外に輸出されたそうだ。戦前の大阪の雑貨輸出って、本当にいろいろやってるんだな。
 メーカーの追跡も興味深い。現在は旭硝子の傘下に入っている岩城硝子、東洋ガラスと名を変えた島田硝子。輸出されたポンド瓶の商標から読み取れるメーカー。また、精工舎の時計のガラス製側を独占した八重田研磨工場など。また、小糸製作所が生産した汽車・電車用の前照灯であるゴールデングローライトの反射鏡にウランガラスが使用されていたことなど。
 戦後は、ウランが核物質として国家管理に入ったことにより、ほとんど製造されなくなった。島田硝子では、戦時中を通じて酸化ウランの在庫があったそうだが、戦後核物質と知って廃棄したという。化学品問屋の在庫を利用した少量生産が見られたのみであること。また、近年は、人形峠のイエローケーキの残りを消化するべく、ウランガラス製品の生産が試みられ、妖精の森ガラス美術館において過去の名品の展示と新規のウランガラス器の生産が行われているという。