大江志乃夫『バルチック艦隊:日本海海戦までの航跡』

バルチック艦隊―日本海海戦までの航跡 (中公新書)

バルチック艦隊―日本海海戦までの航跡 (中公新書)

 19世紀のロシアの海軍建設の歴史や蒸気軍艦・装甲艦の出現などによるドクトリンの変化を中心にした流れを、ロシア海軍建設の歴史を追った本。内容を理解したとは言い難いが…
 艦隊根拠地の設定が艦隊に与える影響の大きさ。バレンツ海に面する北の不凍港ムルマンスクとバルト海のリバウ軍港というふたつの選択肢があり、リバウが選択された結果バルト艦隊が内海艦隊の性格を持つようになったことが指摘される。旅順が戦略的に非常に守りにくく、ロシア内でも艦隊根拠地とすることに反対論があったというのも興味深い。
 また、1890年代にどの方向でも装弾できる旋回砲塔の出現によって、それ以前と以後では、30センチクラスの主砲が発揮できる火力に大きな差があったこと。バルチック艦隊の主力であるボロジノ級戦艦は。もともと低乾舷な上に、設計ミスによる重量増加、過積載による装甲帯の水没という欠陥を抱えていたこと。以上から、見かけ以上に戦力差があり、日本海軍が万に一つも負けることはなかったとまで言っているのが興味深い。
 最後は、日本海海戦後の展望。日本が、海軍も含め、艦隊建設にこだわり、海洋戦略が策源地や経済力を含めた総合的なものであることを理解しなかったことを指弾している。軍縮条約をめぐる海軍内部の分裂と派閥抗争が引き起こした破局

 しかし、ワシントン体制の歴史的意義を理解することができた日本国民は、当時の政治家・軍人をふくめて多くなかった。さすがに、日本海海戦連合艦隊参謀長として指導した加藤友三郎全権(海軍大臣)は、ワシントン軍縮条約の意義を的確に理解し、積極的に主力艦制限の比率に賛成し、その代償として、アメリカ海軍基地のハワイ以西への進出、イギリス海軍基地のシンガポール進出阻止と、日本本土を除く西太平洋の軍備の凍結という大きな成果をかちとった。重要なのは、個々の軍艦の数の比率の多少の差でなく、その戦略的策源である海軍根拠地設置の問題である、という本質をよく理解していた。
 加藤友三郎は国防が軍の専有物でなく、経済的国力・国民生活水準・国際的協調関係などの総合的所産であることをつねづね主張しており、少なくとも、ロシアが国際的海洋戦略を自国のみの海軍戦略に矮小化し、さらに海軍戦略としての海軍根拠地問題を等閑視して、艦隊建設にのみ狂奔して滅亡への道をたどった愚をおかさなかった、しかし、その後、ロンドン海軍条約における補助艦制限以来、日本海軍の思考は狂ってしまった。p.241-2