「天授勤皇戦跡」碑

 水前寺競技場の駐車場に建っている石碑。「南朝方最後の勝利」と言われる託麻原合戦を顕彰するもの。戦前に設置。えらく気合が入ってる。まあ、本体はコンクリ製みたいだけど。で、こういうときには安定の徳富蘇峰。正面は地元の有名人ということで清浦奎吾。
 裏面碑文の碑文が死ぬほど読みにくかった。都合三回の写真撮影と、『平成肥後国誌』の釈文を利用して解読。カタカナをひらがなに変更、あと漢字もフィーリングで常用漢字に変えているところが。最終的に一文字だけ、なんと読むのか分からない字が…








左袖部裏面

正二位
  勲一等
 伯爵
 清浦
   奎吾
    顕



右袖部裏面

皇道地を払ひ南風競はず乱心賊子七道に跋扈して鴟張を逞
うするの時に当り西○に蟠踞し慨然自ら奮うて勤皇の魁を
作し一門宗族の肝脳心血を絞り盡して金甌無欠の国体を擁
護し天下の士風を鼓舞作興したるもの洵に菊池氏を推して
称首の為さざるを得ず
菊池氏は襄祖則隆以来前後五百年二十四代を通じて王事に
尽瘁し征西将軍宮を奉じて少弐大友等の逆賊に抗し利害得
喪の為に未だ嘗て其節を二三にせず累世変葉一心同体南朝
と終始し誓て頽波を挽き天日を回さんことを期す荀も精誠
金石を貫き義気氷雪を凌ぐにあらざるよりは安ふ能く此に
至ることを得し哉百戴の下其風を聞くもの頑夫も廉に懦夫
も志を立つ菊池氏の如きは国士無双忠勇壮烈当に吉野朝廷
の為に其の苦節を全うしたるのみならず天下万世の為に皇
道の精神を発揮したるものと謂うべし若夫れ学を勧め教を
敷き風俗を醇ならしめ民徳を厚からしめ而して外は明国に
対し毅然対等の地歩を占め本朝の威信を堅持したるが如き
当時単り菊池氏に於て之を見るのみ
託麻原は前に阿蘇山を控え後に雁回山を帯ぶ其の附近には
金峰飯田の諸山あり肥後平野の中央に位し兵家の所謂る争
地なり我が武朝公年少英武の資を以て征西将軍宮を奉じ賊
今川貞世の大軍と戦い乾坤一擲其の輪贏を決し其の芳勲
を青史に留めたるは実に此地と為す今や星移り物換り茲に
六百年を閲す頃者同郷の有志深く現今の時局に慨するあり
碑を其地に建て遺跡を不朽に伝えんと欲し文を予に属す嗚
呼菊池氏勤皇の大節赫々として光を日月と争う其の感化の
及ぶ所豈翅に鎮西の一隅のみに止らんや特に菊池氏と其地
を同じくする人士に至りては古を懐い今を撫し其の感慨尤
も深きもの存す乃ち書して以て後の此地を過くるものをし
て観感興起する所あらしむ
 昭和八年十月二十九日     蘇峰 徳富正敬撰
                桂園 井上正雄書



説明看板

  託麻原の戦
 阿蘇外輪山山麓から西に向ってゆるやか
に広がる熊本市の東部台地の一部が託麻原
と呼ばれる。
 南北朝時代の天授四年(一三七八)九月
二十九日、征西将軍宮良成親王を戴く菊池
武朝の南朝方と九州探題今川了俊の大軍と
が、この原野で激しい合戦をくりひろげた。
 劣勢の南朝方は良成親王、武朝ともに傷
を負うというほどの苦戦を強いられたが、
運を天にまかせた奮戦によって奇跡的に凱
歌をあげることができた。
 この戦は南朝方にとって内戦期最後の勝
利であったといわれる。
            熊本市