斎藤美奈子『戦下のレシピ:太平洋戦争下の食を知る』

 主に婦人雑誌のレシピを素材に、総力戦体制下における銃後の食生活を再構成した本。そもそも、英米に戦争をしかける前に、食糧の供給が落ち込みつつあるのだから、最初から勝負は見えていた感が濃厚だよなあ。あと、食事の準備にものすごい労力がかかっている感じが。これでは単身者は暮していけないだろうなあ。椎橋俊之『SL機関士の太平洋戦争』でかなり酷い食生活が描かれていたが、配給だけに頼る寮生活だと、酷い状況になるんだろうな。
 こうやって、日本の戦時食生活の見取り図ができてくると、今度はヨーロッパの状況と比較したくなるな。第二次世界大戦中のイギリスもかなりすごかったようだし。まあ、味はともかくとして、カロリーは十分だったそうだが。第一次世界大戦のドイツの敗北も、食糧供給の問題が背景にあったわけだし。
 全体としては、時間を追って婦人雑誌のレシピがどう変わっていったか。1941年に至るまでに、既に節米料理とか、主食の配給が始まっていて、この時点で家事の技術が劣る人間にはかなりきつそうな段階。太平洋戦争が始まると、食糧も燃料も配給制になっていく。この段階になると配給されるものがどのようなものか予想がつかない。量が少ない。生鮮食品の鮮度の低下などの状況が見られるようになる。イカや何か分からない貝が配給されるようになるとか。さらに戦況が悪化すると、配給状況も悪化する。四章にはいると、もうまともな食糧とは言い難い感じだよな。燃料の供給も細ってまともな調理すら難しくなってくる。何か分からない粉をすいとんにして食べるとか。
 戦争で、通常の流通経路が麻痺すると、こういう状況になるのか…


 以下、メモ:

 後のページでゆっくりとやるけれど、ものがなくなった戦争中にも、婦人雑誌には、とんでもなく手間のかかったレシピが登場する。その背景には右のような事情がからんでいたものと思われる。平和な時期から主婦の心に叩き込まれた「栄養」と「愛情」という二つの呪縛。そこのところがわかっていないと、戦争中のレシピはひどく奇妙に見えるだろう。p.33-4

 主婦雑誌が喚起した、手作りで手間のかかった料理が愛情であるというイデオロギー。さらには、栄養学という知識を広めたメディアであった。そのイデオロギーが飢餓状態でも維持されると。しかし、主婦雑誌って、本当に新たに出現したサラリーマン階層のメディアだったんだな。

 戦争中の婦人雑誌で「節米」ほど登場回数の多いことばもない。どの雑誌も、どの号も、節米、節米、節米だ。ただ、一九四一(昭和一六)年ごろまでの節米料理には、まだあまり切実感がない。やむにやまれぬ苦肉の策というよりは「節米をしなければ」という理念が戦争している感じ。つまりこのころはまだ、手間と時間とお金をかけて「おいしい節米料理」「趣味の節米料理」に凝っていられる程度の余裕が残っていたのである。p.55

 逆に、戦時体制移行で軍需生産が増えて、景気はよかったというしな。

 節米が必要になった二番目の理由、それは当時の日本人が驚くほどの量の米を食べていたことだ。
 日本の歴史のなかで米の消費量がもっとも多かったのは、一九二一‐二五(大正一〇‐一四)年だ・栄養学の知識を説く食生活改善運動などの結果、昭和に入って一人あたり消費量は減ったものの、人口が増えた分、総消費量は上がり続け、一九四〇(昭和一五)年ごろにピークを迎える。
 そのころの年間消費量は一二〇〇万トン。一人あたり約一石一升(約一五二キロ)。一人一日約三合(四五〇グラム)、都市ではもっと多くて約三合半(五〇〇グラム)の米を食べていた計算になる。三合、三合半と軽くいうけど、これはかなりの量なのだ。ご飯にすると、お茶碗で九‐一〇杯分。一日三度、三膳ずつおかわりをしていた勘定だ(余談だが、宮沢賢治の詩にある「一日ニ玄米四合ヲタベ」は多すぎるとして敗戦後の食糧難の時代に三合に書き換えられたという)。戦後の消費量のピークであった一九六二(昭和三七)年(一二〇キロ)の三‐五割増、現在の消費量(六五キロ)の三倍近い。p.65-6

 普通に食えるとは思うが、ものすごい勢いで太りそうだな。かといって、米とご飯の友主体で食ったら、今度は塩分過多で高血圧になりそうな。

 もうひとつ、さつまいもに期待が寄せられた理由は、戦争中に品種改良が進んだことだ。
 近代に入ってから、さつまいもは農家が自家用に栽培するくらいで、じつはそれほど重用されていなかった。それが。二〇世紀の初頭(明治三〇年代)、産業革命のころになって、突然脚光を浴びることになる。工業用のでんぷんやアルコール(酒精)の原料として、注目されることになったのだ。アルコールを作る原理は、いも焼酎と同じである。
 日中戦争がはじまると、政府はさつまいもの品種改良に国策として力を入れた。石油の輸入が制限されたため、さつまいもで軍用自動車と飛行機の燃料用アルコールを作ろうとしていたのである。
 その結果、多数の品種が生まれた。「護国藷」は全国で栽培されて文字通り国を救ういもとなったし、一九四二(昭和一七)年に登録された「農林一号」「農林二号」はでんぷん質の多い優良品種として知られる。戦中戦後のさつまいもの増産は、昭和一〇年代の技術革新によるところが大きいのだ。ただ、そうこうしているうちに国内の飢えが進行し、食糧増産のほうが重要な課題になった。飛行機の燃料になるはずが人間の燃料になってしまったわけである。
 ちなみに当時、評判が悪かったのは「沖縄(正式には沖縄一〇〇号)」と呼ばれた品種。いもの供出は重さで量られたから、品質は二の次、農家はかさがあって作りやすく、収穫の多い品種を選ぶ。配給のいもが大きいばかりで味がないと陰口をたたかれたのは、そういう品種ばかりが配給されたからなのだ。p.136-8

 サツマイモの事情。アルコール製造用のいもということは、当然あまりおいしくなかったんだろうな。で、そこで品質が劣る多収量品種の栽培が選好されたとなると、推して知るべし状態だな。

 炭がなければ七輪が使えず、ガスの使用が制限されればガスこんろも自由には使えない。そこで、古いバケツなどを利用した簡易かまどの手作りが流行し、燃料を節約できる「火なしこんろ」という手作りのアイディア調理器具も生まれた。「こんろ」と呼ばれてはいるものの、これはありあわせの箱や樽の中に手作りの布団を敷き、新聞紙、紙くず、ボロ布などを詰めこんだ、一種の保温ボックスだ。鍋や釜を火にかけて、沸騰したら急いで火からおろす。熱々の鍋を「火なしこんろ」の中に入れ、上から布団をかぶせれば、余熱で火が通るという寸法である。p.154

 今でも、その手の器具って売ってあるわな。「ほっとクック」なる商品名で売られている。わが家にもある。

 戦争になれば必ずまた同じことが起きる。戦争の影響で食料がなくなるのではない。食料がなくなることが戦争なのだ。その意味で、先の戦争下における人々の暮らしは「銃後」でも「戦時」でもなく「戦」そのものだった。だから「戦時下」ではなく「戦下」のレシピなのである。こんな状態からようやく日本が抜け出したのは一九四九(昭和二四)年ごろになってからだった。p.180

 「食料がなくなることが戦争なのだ」というのは確かにそうかも。負けなくても、流通が滞って、いろいろなものが手に入れにくくなるのは確かだろうし。