- 作者: 竹国友康
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2013/07/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ヌタウナギと言えば、つい先日、鉄腕ダッシュで食べていたのが記憶に残っているが、あの場合、内臓を抜いて食べているが、韓国ではぶつ切りにコチュジャンなどで味付けをして食べているそうな。内蔵もそのまま食べると、それは臭みがあるだろうな。逆に言えば、内臓を抜けば、そのまま焼いても食べられる程度の臭みということなのだろうか。
第一章は日韓の海産物貿易や釜山の海産物市場の紹介など。
第二、三章は釜山を舞台に、ヌタウナギが名物料理となる過程、それとからめて、朝鮮戦争で現北朝鮮地域から来た難民たちの生活史を描く。1930年代後半から食用にされるようになったヌタウナギ。また、植民地支配当時の水産試験場によるヌタウナギの皮革利用の試験から、現在でもヌタウナギの皮革利用が続いているというのも興味深い。なめし工程を経て、縫い合わされてた製品が欧米に輸出されているのだとか。また、北朝鮮からの避難者たちが、故郷喪失者として複雑なアイデンティティを抱えながら、生活基盤を構築するべく努力してきた歴史も。
第四‐六章は、ミョンテ(スケトウダラ)を題材に、学問と植民地主義の関係、さらに伝統的な漁業と開発主義的な日本人による漁業の相克を描く。17世紀あたりから盛んになったスケトウダラ漁は、現在では祭祀に使われるなど、国民的な魚として重要な存在になっている。もともとの主な漁業地は現在の北朝鮮領である咸鏡南道で、この地域の寒風にさらされフリーズドライされた干物プゴが広く流通していた。南北に分断された現在は、韓国の最北端地域で生産されている。また、戦後、底引網で近海の資源が壊滅し、現在ではロシアなどからの輸入物が多いと。朝鮮時代には刺網と延縄で漁が行われ、漁業はプゴの流通を担う商人の金融的支配下にあったこと。植民地時代には日本の機力底引網漁船が大量に進出し、資本主義的に開発されつつも、伝統的な漁民も根強く行き続けたことなどが指摘される。しかしまあ、朝鮮半島の漁民も、それほど資源保護に関心があったようには思えないが。
また、ミョンテ研究が植民地時代に朝鮮総督府に所属する学者たちによって始められ、その成果が発表されていたこと。そこに蓄積された資料を使用して鄭文基が研究を発表している状況。また、植民地の中心的な研究者だった内田恵太郎が魚類に対する情熱に比べて、朝鮮の人々に対する意識が薄いなどの指摘も興味深い。しかしまあ、こういう生物学の記載や研究に関しては、そもそもヨーロッパのコロニアリズムの引力圏にあるわけでな。学名というシステムに顕著だが。
最後は京料理に利用されるハモ。そもそも、日本人による植民漁村がハモの漁とそれを鮮魚輸送船によって関西方面に輸出することを始めたこと。現在の海産物の流通もその流れを受け継いでいること。エピローグは、著者が関釜フェリーで釜山に行き、そこで思ったこと。海が、水平線の向こうに行ってみたいという欲望を喚起し、人やものを動かす通路になった歴史。
以下、メモ:
輸出額第二位のタイは、そのほとんどが四国、九州方面で養殖された活魚である。輸出量に大きな変化はない。震災と原発事故の影響は西日本では大きく出なかったといえる。愛媛県、長崎県などにある養殖場から活魚運搬専用船やフェリー(活魚車)で韓国へ輸送されている。韓国でも日本と同じくタイの刺身が好まれている。p.13
へえ、日本からはタイが行っているのか。東北の養殖ホヤや北日本のスケトウダラが災害の影響を強く受けたのとは対照的な状況。
一般に魚肉はタンパク源になるが、ミョンテの魚肉にはさらに他の魚類に比べてアミノ酸が多く含まれていることが確認されている。鄭がミョンテを「保健食物」としているわけである。卵巣は「ミョナンジョ」にする。「ミョンナン(ラン)」は「明卵」、「ジョ」は「塩辛」の意味で、ミョナンジョはミョンテの卵巣を塩とトウガラシで漬けたものをいう。鄭論文では「明卵塩辛」と書かれている。日本統治期には、このミョナンジョは朝鮮各地に輸送されるほか、日本や中国東北地方(「満州」)にまで移出されていた。しかも、「最も多く消費される地方は下関で、次は京城〔ソウル〕、釜山、東京、咸興〔咸鏡南道〕、大阪等の順である」(鄭論文)とあるとおり、日本での消費量が大きかった。一九三四年の資料では、ミョンナンジョの取扱量第一位は下関の七万一七二九樽で、第二位の「京城」一万三二九五樽を大きく上回る。日本人はミョンテを食べることはほとんどなかったが、下関経由で移入される朝鮮産のミョンナンジョは、その当時からよく食べていたのである。p.97
そういう歴史があって、現在の辛子明太子があるんだな。