「水害の訓まんじゅう配り:長崎の集落150年毎月続く」『朝日新聞』12/7/23

 299人が犠牲になった長崎大水害から23日で30年になる。あの日、土石流に襲われながら全員が無事に避難した集落が長崎市にある。幕末に起きた水害の悲劇を語り継ごう。そんな思いで集落では152年間、鎮魂のまんじゅうが毎月配られ続けてきた。


 市東部の太田尾町山川河内地区。三方を山に囲まれ、南に橘湾が広がる。電照菊の栽培が盛んな32世帯の集落だ。
 14日午前9時。なじみの農家につくってもらった白と茶色のまんじゅうが地区の公民館に届いた。各家庭が持ち回りで配って歩く。
 「まんじゅう、持ってきたばい」。当番の男性が声をかけると、30年前の長崎大水害を知る田川フサヱさん(74)は「ありがとうございます」と、大事そうに両手で受け取った。
 リンカーン米大統領に当選した1860(万延元)年から続く風景だ。古文害や寺の過去帳によると、山川河内ではこの年の旧暦4月9日、豪雨で土砂災害が起きた。32人が亡くなり、牛馬13頭が流され、家屋8軒に被害が出た。行方不明者の捜索は13日に打ち切られ、14日に法要が営まれた。
 それから、月命日の14日に集落の観音様へ念仏を唱え、供養のまんじゅうを家々に配る風習が生まれた。長崎大の高橋和雄名誉教授(防災工学)は「地域防災の原点」として注目する。「まんじゅう配りで、忘れがちな災害の記憶が日常に組み込まれていた。これが長崎大水害で的確な避難につながった」
 30年前の大水害の際、山川河内では沢で土石流が起きた。家2棟が流され、4棟の家や小屋が壊れた。
 田川さんは義父母から「大雨の時は南側の川が危ない」と聞いていたから、義母を連れて北隣の家に避難した。一夜明けると、南側にあった小屋は土砂に埋まり、骨組みだけになっていた。翌日、集落そろって1キロほど山を下った別の地区の公民館へ避難。次の日には集落に戻り、男性は後片付けを、女性は炊き出しをして助け合った。
 もう、まんじゅうを配るのをやめようか。そんな声が15年ほど前に出たが、長老たちが配る由来と意味を説いて立ち消えになった。自治会長の川端一郎さん(55)は「経験を語り継いできたから大水害でけが人が出なかった。150年以上続く歴史を次の世代に引き継ぎたい」と話している。(河合達郎)


 長崎大水害
 1982(昭和57)年7月23日から8月2日にかけての豪雨と台風で全国の死者・行方不明者は439人。長崎県内では死者295人、行方不明者4人、がけ崩れ4306件、家屋全壊584棟。長崎市では国重要文化財眼鏡橋が半壊した。この年の長崎県の一般会計当初予算は4097億円だが、被害総額は3153億円に。
 長崎市の北隣にある長与町の役場にあった雨量計が午後7〜8時に1時間雨量187ミリを記録。気象庁の管轄外の雨量計を含めて、今も国内の観測史上最高で、気象庁が83年から「記録的短時間大雨情報」を出すきっかけになった。

 長崎市太田尾町山川河内集落では、1860年の土砂災害以来、毎月月命日に饅頭を配って、災害の記憶を伝承し続けているという。これは災害の伝承方法としては非常にすぐれているよなあ。まあ、毎月饅頭を配るというのは、かなり手間のかかる方法ではあるが。
 このおかげで、1982年の長崎大水害の際には、土石流に襲われながら犠牲者が出なかったのだから、本当に効果的というか。


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