笹本正治『戦国大名の日常生活:信虎・信玄・勝頼』

戦国大名の日常生活 (講談社選書メチエ)

戦国大名の日常生活 (講談社選書メチエ)

 うーむ、予定よりずいぶん長くかかってしまった。
 戦国大名、武田家三代の戦以外の部分を描いた本。「日常生活」というから、もっと生活に密着した話かと思ったが、むしろ戦国大名の政治生活全般といった風合いだな。
 相続、軍備、統治、家族、文化、滅亡に別けて記述される。印象的なのは、国人層を中心とした家臣団の力が強いこと。そもそも、信玄の擁立が、有力家臣に主導されて行われたことだったと。勝頼の滅亡時も、一気に家臣団が寝返ったのが決定的要因だった。このあたり、織豊政権や北条氏あたりと比べると、中央集権化に限界があったのだろうな。あと、常に家臣団や村の紛争解決に奔走するハードな仕事であったことや、様々なツールを使って自家の統治の公的な裏付けを確保しようとするところも興味深い。信玄が教養人というイメージはなかったが、漢詩を詠んだり、儒教や仏教に造詣が深かったという。ある程度は戦国大名に必須の技能だったのだろうけど、信玄はそれを越えたレベルの知識を持っていそうだな。京都との文化的政治的つながりの深さも意外だったな。


 以下、メモ:

 しかも当時の武田家では、諏訪氏として高遠で独自の軍団を形成した勝頼が、その家臣団を率いて、甲斐の武田家を相続したという側面があって、信玄に仕えてきた家臣団と勝頼の家臣団との間に軋轢もあった。一枚岩でない武田軍はそれぞれが勝手な動きをしたのである。p.94

 長篠の戦いの話。君主の交代ってのは、どこでも結構難しいんだよな。勝頼の場合、諏訪氏として自身の家臣団を形成していただけに問題が大きくなったと。

 和歌は京都と同じ文化の中に身を置く意味でも戦国大名にとって重要だった。また和歌は単なる教養でなく、明智光秀本能寺の変の前に自分の心を読み込んだように、言霊によって言葉通りの事象がもたらされると信じられ、未来を引き寄せる呪術の意味も含んでいた。だから戦国大名は戦争の前などに希望を和歌に託したり、政治をするにあたって統治者としての理想をこめて歌を詠んだりしたのである。私たちが考える芸術としての和歌とは、その持つ意味も違っていたといえよう。p.200

 京都と文化を共有するという権威付けと同時に、呪術的な意味もあったと。

 現在、立場上もっとも戦国大名に似ているのは総理大臣や県知事であろう。(中略)また彼らは国民や県民の信頼度が低くともそれほど気にもしない。公共性という面一つ見ても、私には戦国大名の方が今の政治家より遥かに気を遣っていたと思える。p.258

 これはそうかもな。近代日本の政体が、権威主義的な側面が強かったことが影響しているのだろうけど。戦後も開発独裁といったほうがいい感じだし。