- 作者: 日高三朗,保坂晃孝
- 出版社/メーカー: 西日本新聞社
- 発売日: 2014/01/30
- メディア: 単行本
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福岡行くときって、バスで天神に着いたら、その後は地下鉄や都市高速を通るバスで移動しているので、地上のイメージがほとんどない。天神の周辺の大型書店とか、スポット単位の印象ばかり。個人的には天神のビルが並んだイメージが強い。博多が意外なほど歴史的都市としての風情を残していることに驚いた。東と南にお寺が立ち並んでいるのは、いかにも近世都市的だし、大博通りや昭和通りのような拡幅された幹線道路に町すべてが削られたところ以外は、町並みもゆっくりと移り変わっていっているようだ。近世の博多が、北は大浜通りが海岸線で、南は博多区役所がある辺りに堀があったという知識を持って、地図を眺めると、歴然とした違いがあるな。街区の大きさとか、寺社の密度とか、建物の大きさとか。
旧町名を眺めているだけでも楽しい。南西側に長く続く土居町とその西にある古門戸町ってのは、町を囲む惣構の存在とその門の跡を思わせるものがある。本書では特に言及がないし、掲載されている江戸時代の地図を見ると、特にそれらしいものはないから、中世の博多の名残なのだろうか。あと、南東の内陸に「北船町」という町名があるが、これも入り海があったのを想像させる。事実、自然の地形では、博多は二列の砂丘から構成されていたそうで、その間を埋め立てているため、現在の明治通りあたりは、低くなっているという。
あとは、街中にたくさん工場があったとか、城下町に鋳物師がいたとか、なんかイメージわかないな。
「市小路」を貫く通りの歴史は古い。福岡市教委の発掘調査によると。博多は息浜と内陸部の二つの砂丘に分かれていたが、平安末の埋め立てでつながった。呉服町交差点辺りがその地点。北西に少しだけ延長すると市小路となる。p.166
古代から中世の博多って、どんな姿だったんだろうな。博多小学校の敷地から元寇防塁が発掘されているから、近世段階と比べても海岸が引っ込んでるんだよな。