- 作者: 河添房江
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2014/03/21
- メディア: 新書
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室町時代の東山御物から信長の「茶湯御政道」までの正統的な「唐物」の世界から、秀吉意向の侘び茶への趣向の変化。あるいは、家康の「名物」に対する無関心さも興味深いな。後に、町人にモードの主導権が移ったあたりも含めて、政権が文化の中心でなくなる端緒と言えそう。その点でも、徳川政権というのは、それ以前の政権と比べて大きな変化を起こしているのだな。そして、戦国末期以降、ヨーロッパとの接触にともなう、阿蘭陀物の隆盛。
歴代の覇者が、唐物・中国からの文化と和物・日本文化の両方を操作し、文化的ヘゲモニーをも、権力の拡大に利用してきた姿が興味深い。また、唐物といっても舶来品を等しく貴んだのではなく、日本側の美意識によって選好されたこと。場合によっては、輸入品を素材に、日本人向けに原産地とはまったく違うものが作られた唐皮のような事例も紹介される。非常に文化史として、おもしろいものに仕上がっている。
以下、メモ:
そもそも平安時代の調度には、唐風調度と和風調度があり、『源氏物語』の時代は、まさに唐風調度から和風調度へ展開していく転換期にあたる。しかし、もっとも公的で重々しい儀式の折には、唐風の調度が重んじられていた。平安朝の内裏でも、帝が使う公的な晴の儀式の調度は唐風の品を使い、褻の調度は和風という区別があった。
平安時代については、
公(漢)――漢詩・漢字(真名)・唐絵
私(和)――和歌・仮名・大和絵
といった、公私の世界のおける和漢の文化の使い分けが説かれることが多いが、唐風の調度もまさに公(漢)の領域に属するものだったのである。
唐物を尽した調度は、幼稚な女三の宮がやがて光源氏の妻となった時、せめて身の回りの調度だけは素晴らしくして、魅力をますようにという朱雀院の配慮であった。唐物のブランド性を使って、公(漢)の権威性を女三の宮に付与しようとする行為だったわけである。
以上、三人の唐物派の女性たちをみてきたが、これだけでも『源氏物語』の中の唐物が、女性たちの境遇や性格をものがたるアイテムとしても巧みに機能していることがわかるだろう。p.87-8
義満の中国趣味が、交易の相手である明でもその前の元でもなく、さらにさかのぼって徽宗皇帝や牧谿・梁楷など、宋の文化に向っていたことも注意しておくべきだろう。おそらくそれは宋の文化水準の高さと、その優美な文化が日本で好まれたからではないだろうか。牧谿や梁楷にしても、本国の中国ではそれほど評価を得ていなかったという説もあり、そこに和の文化からみた漢の絵画の取捨選択があったといってもよい。つまり日本の美意識から選別された宋の絵画なのである。p.137-8
室町時代の話。日本側で、中国の文物が取捨選択されたという。
秀吉は、また呂宋壺とよばれる中国南部の民窯からルソン(フィリピン、スペイン領)経由で輸入された壺を愛好し、新たな名物となした。秀吉はルソンとの貿易を独占していたが、呂宋壺に千利休の協力を得て「上中下」の等級をあたえ、銘もつけて、名物としての命を吹き込んだのである。p.157
なんというマッチポンプ。鑑識眼に適うものがあったのだろうけど、自分でモードを作り出して、その供給も独占するとは。
吉宗の施策の特徴として、輸入品の国産化の奨励を挙げることができるが、そこには中国の地誌の輸入が大きく貢献していた。「漢訳洋書輸入の禁」の緩和により、世界中の農作物を列挙した地誌の輸入か可能となり、農作物の知識を体系的に獲得することができるようになったのである。さらに日本の風土に適した農作物を見極めるために、種・苗木・根茎が輸入され、栽培が試みられたのが朝鮮人参だった。p.182
各種農作物の国産化に、地誌が重要だったというのが興味深いな。