老川慶喜『日本鉄道史幕末・明治篇:蒸気車模型から鉄道国有化まで』

 日本の鉄道に関する通史。日本人が鉄道というものと遭遇し、取り入れ、普及させていく道程。鉄道の敷設の話だけではなく、きっちりと鉄道による地域の変動を論じているのも良い。簡にして要を得た通史だと思った。
 1870年代には鉄道の敷設があまりすすまなかっかった状況。そして、80年代に急速に敷設が進むコントラスト。あと、建設工事が意外と早く進んでいるのも興味深いな。建設にかかる時間は、現在の方がよっぽど長くかかっているような気がする。数年で開業にまでこぎ着けているが、土地の買収とか、実際の建設はどうなっていたのだろうか。
 鉄道交通が通じたことによって諏訪地方や関東の織物業・蚕糸業産地が世界経済に接続した一方で、東北などが原料供給地という地位を固定化されたこと。また、鉄道がなかなか通じなかった結果、江戸時代には鉱工業が盛んだった島根が衰退するというような、鉄道の経済的影響も興味深い。
 ラストは鉄道国有化の議論を紹介しているが、国鉄が地域ごとに分割民営化された現在から見ると、国有化に使うリソースを鉄道の広軌化に使ったほうが良かったように思えるな。
 機関車の製造や整備に関してはほとんど言及されていないが、日本の金属加工や機械工業の発展とからめて、このあたりも興味深い課題のように思える。


 以下、メモ:

 佐賀藩以外にも、薩摩藩福岡藩で蒸気車模型が製作された。薩摩藩では、藩主の島津斉彬が一八五四年に蒸気船の建造と同時に蒸気車模型の製作を家臣に命じ、翌五五年に製作された。福岡藩でも、詳細は不明であるが一八五七年ごろに蒸気車模型が製作されていた。また長州藩加賀藩では、何らかの方法によって蒸気車模型を購入していた(武藤長蔵『本邦鉄道史上第一頁に記載さるべき事蹟に就て』)。p.9

 へえ。けっこう数があったんだな。現在にはどの程度残っているのだろうか。

 ところで東西両京間鉄道として中山道鉄道が採択されたのは、山県有朋らの軍首脳部が海上からの攻撃を受けやすい東海道線を忌避したからであるとしばしば説明される。しかし、山県の建議のなかにこうした主張はみられない。鉄道敷設において、海岸からの隔離という主張が初めてみられるのは、一八八五年に招聘されて来日したドイツ帝国の軍人メッケル少佐が、八七年一月から三月ごろにかけて執筆したとされる「日本国防論」においてである。参謀本部はこのころ開始された東海道線の敷設にさいして鉄道局と協議し、線路を海岸から隔離して敷設することを要請したのである。海岸からの隔離策は、少なくとも東西両京間鉄道を中山道線に決定するさいの有力な根拠になったとはいえないようである(松永直幸「中山道鉄道の採択と東海道鉄道への変更」)。p.94

 時系列的にみると、関係ないのか。まあ、「地域開発」という視点に限れば、中山道ルートの方が効果は大きかったろうな。中山道が日本の幹線となる架空世界とかおもしろすぎ。

 株式への投資という行為は江戸時代の富くじと似た面があり、明治初年の民衆にもかなり浸透していたのではないかという見解がある(高村直助『会社の誕生』)。一定額の投資をして、うまくいけばリターンがあるが、失敗しても最初に投資した以上の負担を負う必要はない。有限責任という考え方は、富くじにも株式投資にも共通していたのである。飛騨地方の名望家たちが、東北鉄道の株式募集に積極的に応じることができたのは、こうした江戸期からの経験があったからといえよう。p.122-3

 へえ。江戸時代と近代の金融のつながり。金融の用語でも、伝統的な用語が継続されているというし、そういう継続性は強いのかもな。

 鉄道業は、石炭鉱業の発展にも大きな影響を及ぼした。石炭の迅速で安価な輸送を実現するとともに、みずからも膨大な石炭需要を創出したのである。一八八〇年代前半までの石炭市場をみると輸出が出炭高のほぼ五割を占め、国内消費の中心は製塩用であった。製塩用の割合は、一八八四年には五七・四パーセント、八六年には五三・一パーセントであった。p.169-170

 この時期には、蒸気機関がそれほど動いていなかったということだよなあ。その後、88年には35パーセントまで低下するそうだから、短時間に急速に機械利用が立ち上がったということができそう。