安藤優一郎『大名屋敷の謎』

大名屋敷の謎 (集英社新書)

大名屋敷の謎 (集英社新書)

 第一章に大名屋敷の生活に関する話があって、残りは大名屋敷の維持に重要な役割を果たした、御用商人・御用聞に関する話。特に、19世紀に尾張藩の御用聞の地位を維持した中村家史料による、大名屋敷に出入りする御用聞がどのようなことをやっていたのかを詳細に解説している後半がおもしろい。あと、将軍家に菓子を納入していた金沢丹後掾のビジネス規模とか。将軍家が配布する饅頭数万個とか、赤飯の折詰三万折とか、これだけの量になると材料の調達から調理施設、人手、燃料、輸送と、かなりの手配が必要になるよな。どれだけの人を使っていたのだろうか。「不調法お詫び」なんてのもあるから、トラブルもあったようだが。
 後半は中村家の尾張藩との取引。屎尿を下肥として汲み取る権利を獲得し、一般の農民に出入り許可を売ってからコミッションを取る。馬の飼料の調達や荷運びのための馬と人足の調達。庭園の整備のための人員動員。飼料の干草の投機性がすごいな。あらかじめ人をやって買い集めて、屋内保管。必要に応じて輸送する。嵩張るため、飼料問屋がなかったというのも興味深い。さまざまな人員の手配や物資の購入のために、名主層とどういう関係を作っていたかがわかるともっとおもしろかっただろうな。
 歴代の中村家当主のタフネゴシエイターぶり、幕末の政治的混乱が御用聞きにはビジネスチャンスだったこと。江戸幕府の崩壊と武士人口の減少が経済的な打撃になったが、中村家は官軍への供給業者になることで名望家としての地位を維持したこと。明治に入ってある程度以降は商売から手を引き、地域の名望家として公職や政治家として活動したという。しかし、中村家にとって尾張藩の御用聞きはサイドビジネスどころか、メインの活動だったんじゃなかろうか。「豪農」というのは、いまいち当を得ていない呼び方だと思う。
 そもそも、江戸近郊に居住する「百姓」って、都市へのサービス業が生業の中でかなりの比重を占めていたんじゃなかろうか。


 以下、メモ:

 将軍様が訪問してくれるだけで、御用聞の甚右衛門には、六十両ほどの臨時収入が転がり込んできたのだ。つまり、六百万円規模のコミッションビジネスなのである。知られざる江戸経済の裏側が、甚右衛門の活動を通して浮き彫りにされている。p.120

 ここから、工作費やらなんやらの、必要経費がどれだけかかっていたのかが気になるな。場合によっては無料奉仕を申し出たりしているわけだから、かなりの手元資金を用意しておく必要がありそうだが。

 戦争となれば、膨大な軍需が生まれる。その一端が、ここにも表れている。英仏両国の中国大陸での戦いを、日本は実質的に支えていたわけだ、すでに、日本は中国大陸をめぐる国際紛争に深く巻き込まれていたのである。p.139

 アロー戦争の時に、日本が兵站基地になった状況。馬やその飼料が大量に買い付けられ、価格の高騰を招いたと。もっと後の時代には、ロシアも含め各国の東洋艦隊の整備補給を日本でやっていたり、補給基地として重要だったんだよな。


 文献メモ:
森銃三, 金澤復一共編『金澤丹後文書』東京美術、1968
金沢復一『金沢丹後江戸菓子文様』青蛙房、1966
 どっちも熊本市内の図書館には入っていないようだ。このあたり、層の薄さというかな。