『歴史群像』No.126、2014/8

 買ってから、しばらく放置していたのを通読。けっこう読み応えあったな。


田村尚也「帝国海軍軍備計画:1922-1941」
 戦間期日本海軍の戦力整備計画の流れ。第一次世界大戦後の建艦競争とその限界、軍縮条約時代の個艦優越思想、無条約時代の軍備拡充。軍縮条約に不満を持った海軍は、軍縮条約を破棄し、戦力整備の自由を得るが、アメリカも対抗して軍備拡充に走り、むしろ引き離されていく状況に。条約が、むしろアメリカも縛ったと指摘しているが、そのあたりを日本海軍の関係者は事前に想定できなかったのだろうか。
 対米開戦以前に、日本海軍の整備計画は、生産力の限界から、行きづまっていたこと。結果として、アメリカに戦力で引き離され、対米開戦を決意するなら1941年はギリギリの状況であったと。
 本当に最初から勝ち目ないな。


古峰文三ノモンハン航空戦」
 ノモンハンで戦われた航空戦を中心にまとめたもの。航空優性が、地上戦の推移に決定的な影響を及ぼしたこと。日ソ両国とも、ここで経験した近代的空軍どうしの戦いが、その後のドクトリンや航空機開発に強い影響を与えた。
 初期の日本軍の圧倒的優性。ソ連軍が戦力を投入し、互角の状況に持ち込まれ、消耗戦に。さらに、末期には圧倒的な兵力によって常にソ連戦闘機が送り込まれる中で、完全に守勢に追い込まれる状況。逆転を狙って、戦力を集中し逆転を狙うが、その前に停戦と。攻勢的な航空撃滅戦が封じられたのも、日本軍にとってはきつかったな。ただ、ここで本気になって日本も戦力を投入していたら、ソ連の戦力の投入ぶりから、全面戦争にエスカレートしていたかもな。
 日中戦争ごろの陸軍航空隊が、小規模な組織で、かつ旧式装備しか持っていなかったため、欧米からの輸入機を装備した中国軍に苦戦したというのははじめて知った。海軍航空隊の活躍が語られるのもそういう理由か。九七式戦闘機が、世界水準の高性能戦闘機だったとか。


中西豪「軍事分析蒙古襲来」
 蒙古襲来では、日本の武士がモンゴルの集団戦の前に苦戦したとされてきたが、実際には逆で、100騎程度の弓射騎兵の集団的運用と言う日本武士団の戦い方に、むしろモンゴル軍が苦戦したとする。一回目の文永の役では、武士の攻勢に対し、モンゴル軍は弾幕的な弓の射撃で日本側に大損害を与えたが、矢を消耗して撤退に追い込まれたと。確かにつじつまはあうか。博多や箱崎は焼かれていないのではないかという疑問に関しては、日本軍は、その後、いったん大宰府まで撤退しているので、自ら焼いた可能性は高いのではなかろうか。
 日本軍の軍事的優位を全体的に指摘しているのだが、中国側の史料があまり紹介されないので、ここで書かれた戦況がどういう根拠で描かれたのかがわかりにくいのが欠点かな。


瀬戸利春「太平洋輸送作戦」
 陸海軍の兵員輸送や補給物資の追送といった軍事的な輸送の側面に注目した、太平洋戦争の商船の歴史。一個師団を輸送するには15万総トン、優秀船を20隻近く投入する必要があること。輸送力の低下が、日本軍の渡洋作戦能力の低下を招いたという指摘が興味深い。
 資源輸送に対する認識の欠如が指摘されるが、陸海軍は民需用の輸送船の確保に努力し、最末期までかなりの船腹が民需用に充当されていたこと。その結果、両軍の輸送能力は急激に低下していったという。
 あとは、荷揚げが海上輸送の隘路だったんだなというのが。大発に積み替えての揚陸が一日800トン、岸壁での陸揚げが1000トン、あんまり変わらんやんけと。このあたりの能率の悪さが、パレットとか、コンテナのような規格化された輸送資材が導入される理由だったと。


長南政義「乃木稀典の奉天会戦
 なんか前半と後半で、評価軸が変わってないか。乃木が無能であったとは言えないのは確かだけど。全体の戦況を眺め渡して評価すると、第三軍が孤立する危険があったのは確かだろうし。後半には、第三軍が見通しを誤っているわけだし。


山崎雅弘「ディエップ強襲上陸:多くの戦訓を残したカナダ軍の壊滅」
 政治的な理由で決行された作戦だったと。しかし、やはり火力援護なしに上陸は無理だったんじゃね。せめて、重巡の援護があれば、一方的に海岸で撃破される展開にはならなかったと思うが…