講演会「細川家伝来の織田信長文書と戦国社会」

 県立美術館に行ったのはずいぶん久しぶり。
 県立美術館の特別展「信長からの手紙」に伴う特別講演会。永青文庫研究センター創立以来の、細川家文書研究の成果が凝集されているという。
 最初は伝来の過程。そもそも、幽斎が手許に持っていた文書類は、幽斎の隠居所を相続した細川孝之の手許にあった。その後、忠興の手に渡り、忠利の死の直前に熊本の本家に渡り、その後は熊本で保管され続け、西南戦争第二次世界大戦でも守り抜かれた。細川家は、忠興が八代を立孝に相続させたように、分家の動きが盛んだったが、近世的な「御家」形成の過程で、熊本の細川本家に集積された。細川家文書に59通と、他の大名家と比べても、多数の信長書状が残るのは、忠利・光尚の努力の賜物であったという。


 それ以降は、書簡から読みとれる、信長の思考。
 最初は、信長と足利将軍の関係。先日報道された米田家の紙背文書から明らかになるように、早い段階から、足利将軍を擁して上洛し、実権を握ることを考えていたこと。これは、戦国期足利将軍家の基本的なパターンから出ていない発想で、少なくとも信長が革新的な発想で何らかのことをなそうとは考えていなかったことを示す。また、義昭との決裂に際して、最後まで和平交渉の努力を行い、幽斎に出した書状で「天下再興」という言葉を述べているが、これは将軍を擁して畿内地域の安定を取りもどす程度の意味で、信長の発想がここでも伝統的なものを出ていないと指摘される。
 少なくとも、信長の発想が革新的・先鋭的ではなかったことは確か。その上で、保守的な人物が、自覚なく、目先への対応で旧来の秩序に風穴を開けてしまうという事実が、歴史のおもしろさというか、妙味だと思った。この種のパラドックスは、歴史ではありがちな話ではあるが。


 その後は、足利将軍という権威の後ろ盾を失った信長が、どのように権力を維持集中するかが課題になる。一向一揆や武田家との戦争状態、いわば戦時体制が信長の権力集中の手段となる。だからこそ、「根切」といった言葉で過酷な戦争が行われる。一方で、根切を唱えつつ、戦後の統治を考え、非戦闘員は助命しろという命令を出したりする。
 また、長篠合戦直前の幽斎宛の書状も興味深い。直前の戦況報告、さらに武田家二代に対する、直裁的な信長の憎悪。


 本願寺との戦争が決着した後は、周囲の戦国大名とどういう関係を取り結ぶか。また、どういう名目で統治・権力を維持するかが課題になる。そこで信長は、諸大名への征服戦争を選択し、戦時体制を維持することを選ぶ。ここで、関西方面の代理人たる明智光秀との方針の齟齬が発生し、本能寺の変へとつながったのではないかという話。また、天下人として後継者となった秀吉が、天皇の権威を背景にした「惣無事体制」(諸大名の本領安堵と領地抗争の関白による裁判)を構築した伏線になったのではないかという。結局、信長は新しい「体制」の創出に失敗したとも言えそう。本能寺で死ななくても、後に安定した体制を残すのは困難だっただろうな。


 丹後時代の信長書状から読みとれる、信長の代理人としての明智光秀の地位も興味深い。全面的な信頼を受け、統治権と軍事動員権を保持。さらに、本能寺の直前まで、信長は光秀に全幅の信頼を置いていたことも読みとれる。
 光秀の指導の下で、石高制検地と細川家からの領地の宛行による国人層の細川家給人化。さらに、旧守護家である一色氏に関しては、信長からの宛行による織田家部将化。検地出来分による大名の権力集中。また、この際、村落が年貢納入の法的主体になるという変化も指摘される。


 密度が濃くておもしろかった。「革命家」信長には興味がなかったけど、保守主義者が暴れたというのなら、ちょっとおもしろいかな。また、近代の歴史学者にとって、近世を説明するのに、「革命家」信長が都合が良かった。すなわち、信長を利用した姿も指摘される。