三上喜孝『落書きに歴史を読む』

落書きに歴史をよむ (歴史文化ライブラリー)

落書きに歴史をよむ (歴史文化ライブラリー)

 戦国期に仏堂に書かれた落書きを題材に、中世の人々の心性に迫った本。文字の持つ呪術性が見えて興味深い。彼岸の存在とコミュニケーションをとる手段。仏堂に書き付けられた落書きが、16世紀から17世紀前半に集中するというのも興味深い。本書は東北地方を中心としているが、熊本では、こういう落書きを集成した研究って知らないな。文化財報告書を漁れば出てくるのかもしれないが。そもそも、16世紀あたりに遡る観音堂がどのくらいあるのか。
 観音信仰の普及に伴う巡礼行為の庶民化。社会不安が人々を巡礼の旅へと駆り立てる。いつ消えるかわからない自分の存在を残すために、巡礼先の仏堂に「かたみ」と書き付ける。なんというか、追いつめられた思いが胸に迫る。また、観音堂の落書きは、納札と同じ機能を持ち、仏の加護と結縁を期待する信仰行為であったことが指摘される。落書きは、この時代の宗教的な心性を照射する、重要な手がかりであったと。
 落書きの研究から非常に興味深い世界が明らかになった。ただ、問題は、後続の研究者が、これ以上の成果を出せるか疑問って所だよなあ。落書きが、結局一定のパターンに則る以上、大まかな見取り図はできてしまったというか。あとは、地域性の析出とかが課題になるのかね。


 内容は大まかに三つに分かれる。最初は研究史の紹介と落書きの紹介。続いて、「かたみの歌」をめぐって、歌を書き付けることの意味を追っている。後半は、経典を奉読した「巻数」を書き付けた落書きから、正月8日の修正会の結願の日に下げられる「カンジョウ板」の風習との類似性を指摘する。
 各地の観音堂の落書きの紹介がおもしろい。屋根葺き職人の墨書から出身地域が判明したり、落書きの出身地から、地元が主だが、遠方からも巡礼が来ていることが判明する。また、落書きは定型表現が多く、出身地名前と「かたみかたみ」と記念に書き残すパターンが多いこと。「あらあらこいしや」といった男色を示すもの、「いろはにほへと」などの手習いと思われるものなどが多いという。
 続いては、「かたみの歌」の話。「書き置くも形見となれや筆のあと我はいずくの土となるとも」ないしは、それを少し改変した歌が、全国各地の仏堂に書かれていること。それほど文字がかけない人にとっても、手習いの書として普及し、巡礼の人の動きによって広がっていること。同様の歌が、東北から鹿児島まで行き渡っている、人の動きの激しさ。
 そして、巡礼によって書き付けられることが途絶えたあと、19世紀になって、残された落書きが人物伝説や説話と結び付けられる事例がおもしろい。遺された文字が、当初の文脈から外れて、一人歩きを始める姿。
 また、同様の手習いの歌として古代にあちこちに書き付けられた「難波津の歌」との共通性や歌を書き付ける伝統、土器の内側に歌を書くことが呪術と同様の機能を持っていたことなども紹介される。


 「巻数」墨書については、古代から法会で読まれた経典を板に墨書し、掲示する風習があったこと。これは現在でも佐渡や若狭で行われているカンジョウ吊りの風習とつながる宗教的行為であったと指摘される。
 また、巡礼による、納札代わりの落書きの延長として、アンコールワットの森本右近太夫の落書きも紹介される。1617(慶長17)年と1632(寛永9)年の年紀の二種に分かれること。前者が堺や京都の人のもの、後者が肥前肥後の人物が主体であるという。後者は、加藤清正南蛮貿易との関連も想定できる。


 以下、メモ:

 これらの歌について、犬飼隆氏は次のように考証している。『拾遺和歌集』の成立は寛弘2‐4年(一〇〇五‐〇七)、伊勢の没年は一説に天慶二年(九三九)とされる。この二首の歌は、十世紀半ばに実際に世に流布していた証拠であり、歌句が流動しながら人々の口にのぼせられていたうちの一つが、『拾遺和歌集』や『伊勢集』に採録されたのである(犬飼隆『木簡から探る和歌の起源―「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代―』笠間書院、二〇〇八年)。
 人々の口にのぼせられていた歌が、落書きとして書かれ、さらにそれが歌集に採録されるというプロセスがある、という指摘は興味深い。「難波津の歌」は、歌集に収められなかったという点でやや異なるが、『古今和歌集』の序文において取り上げられている。つまり歌集に取り上げられる以前にすでに、人々に広く知られていた歌である、という点では、共通しているのである。p.78

 流行していた歌が、歌集に採録されるプロセス。

 ひとつここで確認しておきたいことは、中世末に成立した地方霊場を、「一般に地方性と辺鄙性とに阻まれて、狭隘な信仰圏を擁するに過ぎず、地方性を脱却し、広範な巡礼を吸収するのは頗る困難であった」(新城常三『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』塙書房、一九八二年)と評価してしまってよいのか、あらためて考えなければならない、という点である。むしろ筆者には、全国の巡礼者たちによる情報伝達の凄まじさがみてとれるのだが、今後も類例を積み重ねるとともに、歴史学、古典文学、民俗学などによる学際的な研究が望まれるところである。p.131-2

 全国で同じような歌が流行するってことは、それだけ広範な人の動きが想定できるしな。地域ごとに細かく年代を調べていけば、もっと精密に人の流れが追えるかも。例えば、豊臣時代以降、中部地方などの大名が九州に移封される事例が多かったわけで、それが影響しているかいないかで、巡礼のネットワークの広がりを考えることができる。西国三十三ヶ所が、東国の巡礼者向けに、ルートを変更されているということを考慮すると、戦国期にはかなりの密度で東国から西国に巡礼が向かっていたのは明らかだが。そういえば、島津家久の1575年の上洛なんかも、その一つの動きではあるわな。

 吉川真司氏は、後宮女性たちが文字利用の機会が少なかった理由の一つとして、「後宮女性にとって自分の筆跡を一目にさらすことは、顔を見せるのと同様に具合の悪いことだったのではあるまいか。自ら筆を執らず、下級書記官に口頭で伝えて文字化させることは、その人物の高貴性の表現であったと考えられるのである」と述べている(「女房奉書の発生」『律令官僚制の研究』塙書房、一九九八年)。『醒睡笑』にみえる女房も、文字が書けなかったわけではなく、自ら筆を執ることをしなかった、ということにすぎないのではあるまいか。女性の落書きがほとんどみられないのも、「筆跡を残す」ということに対する抵抗が強く存在した可能性は考えられないだろうか。裏を返せば、落書きをすることで残したかったのは、「筆の跡」、つまり、自分自身の筆跡だったのではないだろうか。p.220-1

 筆跡を残すことの重要性。それが、逆に女性にとっては、仏堂に落書きを残すことに対する抵抗になったと。文字文化の一側面。