久留島浩『シリーズ近世の身分的周縁5:支配をささえる人々』

支配をささえる人々 (シリーズ 近世の身分的周縁)

支配をささえる人々 (シリーズ 近世の身分的周縁)

 3、4巻と比べると「身分」という観点がわかりやすいかな。この巻は、百姓と武士の中間にいる人々を取り上げている。まとめると、村落共同体と支配者の仲介役をやっている人々と百姓だけど御用の時だけ武士といった人々の二種類に分けられるかな。支配に関わる時点で、役職についている間が武士扱いということになるので、純粋に後者だけというのは、牧士と八王子千人同心のみか。純粋に前者に属するのは庄屋のみ。
 本書では、彦根藩の町人代官、河内国の在地代官、上総国本小轡村の庄屋、関東の牧を管理する牧士、幕府の地方統治の実務を行う代官手代、戦時に動員される在地の武士である八王子千人同心、最後に村役人層などが役所と交渉を行う際に文書の作成を補助し、同時に出張してきた村人の宿も勤める御用宿の7本の論文が収録されている。


 最初は町人代官。彦根藩は当初、在地の支配の実務を彦根の町人を代官に取り立てて、行わせていた。彦根町の初期の町人や琵琶湖周辺の商人を採用し、彼らは町役人も兼務していた。これが、時代を追うにしたがって、専業の役人となっていく。また、18世紀の半ば以降、代官の収入を歩合から固定給にし、それによって収入が低下したこともあって、町人代官たちは武士への取立てを求めて、さまざまな運動を行っていく。しかし、彦根藩はあくまで武士と町人との峻別を維持した。最終的に、井伊直政の200回忌法事に代官たちが本堂まで入って参拝したことが、「不敬」として、廃止されることになる。他の藩では、在地上層を武士化して、統治に組み込んで行く時代に、逆の行動を行っている。このあたり、幕末に赤備えで突撃かまして、ボロ負けした井伊家らしい時代錯誤ぶりだなと。
 続いては、大名や旗本の関西飛び領地の支配を代行した在地代官の話。碓井村の松倉家の事例を追っている。大庄屋時代から藩や旗本家の知行地財政に関与し、さまざま費用を立て替え、自身も藩に資金を貸し出す。あるいは、大坂などの銀主との交渉を行っていた。また、知行地経営には、村自身が資金を借りる郷借が行われていた。在地代官になると、本人は家督を譲り、代官業務に専念することになる。一方で、村や知行地が借りる資金の保証として、在地にそれなりの規模の経営を維持していることは重要であったこと。借金の借り手・保証人として、長期的に地元に居る在地代官は、数年で交替する派遣の代官より信用が高く、そのために在地代官が必要とされたことが指摘される。
 三番目は庄屋。上総国長柄郡本小轡村の庄屋藤乗家に残された史料を題材に、庄屋が惣百姓共同体からは微妙に外れた位置に存在することを指摘する。具体的には、二つの村方騒動をめぐる文書から、百姓家の相続や経営維持には、惣百姓共同体が関与していたこと。庄屋はそのような協議に直接関与せず、まとまった案を承認するような役割であったこと。これは、領主方とも通じる立場であったことと、村内で突出した経済力と特権を持つ存在であったことが要因であったとする。とするなら、村内の所有構造が違う村落では、また、存在状況が違ったのだろうな。あと、あそこまで書類が揃っているのに、提訴しようとした方は、どうして騒動を起こしたのだろうか。
 四番目は、牧士。千葉県内には、幕府に馬を納める牧がいくつも存在し、特定の時期に放牧していた野馬を集めて、選別する方式で経営していた。その、管理の実務を担うのが牧士で、野馬をかり集めるなど、御用のときだけ、彼らは武士の装いをしていた。彼らは、牧士仲間を形成し、跡目相続などの任用や牧の運営に影響を与えた。また、18世紀半ば以降の新規任用が進むと、由緒を明らかにし、旧来からの家の独自性を主張するようになっていく。百姓と武士の狭間で、独自の身分意識の形成。
 五番目は、実際の地方統治実務を担う代官の手代について、「よしの冊子」を手がかりに、どのように見られ、どのような集団であったかを追求している。代官手代に関しても、「仲間」集団的なものが、職務遂行や任用に重要であったことなど。
 六番目は、江戸近郊の郷士集団であった八王子千人同心について。村社会に溶け込み、むしろ百姓としての格好で「役」である日光の警備などに従事していた状況。しかし、18世紀半ばの寛政期以降、武士身分であることを強調するような形で、軍制改革が進められる。村役の兼帯禁止や耕作を代理人にやらせるなど。その結果、村落共同体内で浮いていく状況。さらに同心株の売買で、新たに同心となった者が、いわば元を取り返す形で身分を主張していく。郷士層では、「兵農分離」が近代まで続く過程だったと。
 最後は御用宿。武士が都市に集住し在地との距離が遠くなったため、村の人々が何らかの交渉を持つ必要があるときは、都市に出向く必要がある。その際、拠点となり、また役所との交渉の仲介を行う存在として、御用宿が必要とされた。彼ら御用宿も、支配を補助する立場として、御用提灯などの所持を許された中間的な身分であった。一方で、御用宿は村から、サービスの代価として支払われる金銭に依存し、サービスが悪ければ罷免される存在でもあった。頻繁に、サービスが悪いと詫び状を入れさせられているのが興味深い。


 全体として、武士であるか、百姓であるか、矛盾に立たされる局面も多かったのだな。そして、在地の村落との交渉力は、こういう身分的中間層の方が強かったと。