金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』

織田信長 <天下人>の実像 (講談社現代新書)

織田信長 <天下人>の実像 (講談社現代新書)

 意外と、読むのに時間がかかってしまった。朝廷とのやり取りを題材に、信長の政治観や実際の政治行動を炙り出している。最近の研究の流れに沿った、信長が特に革新的な思想を持っていたわけではなく、その統治も先例を重視した特に革新的とは言い難いものであったと指摘する。こういう、特に革新的とも言い難い人物が、無自覚に行動した結果、社会のあり方が大きく変わってしまうというのが、歴史の妙味だよな。正直、「革新者」信長って歴史像は、あんまりおもしろくなかった。
 一方で、信長のパーソナリティが歴史に大きな跡を残している部分も少なくないような。特に、短気というか、せっかちさというのは、信長の重要なパーソナリティであるように思う。戦国大名の滅亡や僧侶の政治空間からの追放なんかは、そういう性格が歴史に影響した例だろう。対朝廷関係では、あまり表ざたにならない感じではあるが、将軍義昭を京都から追放し、上洛した直後に、改元をどうするか問うあたりは、信長らしい性急さだなと。
 しかし、この本、最近の講談社現代新書の水準からすると、ずいぶん重い感じがする。もともとメチエ向けだったそうだが、確かにそっち向けの方が近い感じがする。


 最初のまとめがおもしろいな。信長の言う「天下」が京都を中心とした関西地域であり、あるいは朝廷と将軍を中心とした政治空間であったこと。全国統一といった事業は視野になく、永禄11年に将軍義昭を奉じて上洛した時点で、「天下布武」が完成していたという。その後、義昭と信長の政治目標は、「天下静謐」だった。関西に将軍を中心とした天下が存在し、周囲に半自立的大名領国が分布する、室町時代の延長線上にある政治体制が構想されていた。しかし、義昭はそれを維持できず、両者は次第に対立を深め、最終的に義昭追放にいたる。その後も、信長の政治目標は「天下静謐」であり、それを自分が中心になって進めようとした。しかし、「将軍」の権威を欠いた信長の命令に、周囲の大名たちは従わず、結果戦争となる。そして、周囲の大名を滅ぼした結果、信長の領国は拡大していった。それが、後世からは、秀吉が全国統一のを行ったこともあって、統一事業の見られるようになったという。
 信長にとって、将軍も朝廷も、「天下静謐」という政治的理想に奉仕する存在であり、その役目を果たせない場合は、容赦なく叱責されたというのも興味深いな。


 本編は、個々の事件を題材に、信長と朝廷の関係を探っている。従来、対立説などが唱えられてきたが、信長との関係について、むしろ朝廷の側が積極的であったという。朝廷としては、政治的な保護者として、さらにさまざまな儀礼の費用の援助者として、信長に期待していたこと。信長の側が、朝廷に積極的に関与し、動かそうとした形跡があまりないこと。それでも、信長は「天下静謐」のために、朝廷の安定が必要と考えていたこと。官位について、それほど関心がなかったが、授与される場合には、朝廷に何らかの貢献「馳走」を行うことが必要と考えていたことなどが紹介される。次代の秀吉が、朝廷を積極的に利用したことと対象的だな。官位や朝廷の権威をうまく利用すれば、あそこまで戦争の連続じゃなかったかもしれないと思うのだが。
 信長の官位をめぐる態度と周囲との軍事的緊張が連動しているとの指摘。蘭奢待切り取りを行った天正二年の奈良行きが、奈良の住民に対し、「天下静謐」の責任者が自分であるとデモンストレーションする行動であったという指摘が興味深い。蘭奢待の切り取りも、先例に則っていると。
 朝廷の政治問題に介入する際も、基本的には先例を重視した判断をすべき。また、政治的判断が揺らがないようにするべきといった、「天下静謐」のための安定した政権であることを重視する態度であったという。
 朝廷との関係を中心に見ると、信長の意外なほど穏健な態度が浮き彫りになる。


 ラストは三職推任と本能寺の変にいたる政治過程。時間的に近く、肝心な史料が残っていないが、朝廷側は征夷大将軍に推挙するつもりであったこと。それに対し、信長は「馳走」として、四国や毛利の征服を行おうとしたこと。天下静謐維持という大義名分の反する征服欲を見せたことが、明智光秀の謀反につながったのではないかという指摘は興味深い。


 以下、メモ:

 つまり、「天下布武」とは、将軍義昭を連れて入京し、畿内を平定して凱旋するという一連の戦争を遂行した結果、将軍を中心とする畿内の秩序が回復することを指すのである。これは永禄一一年に実現した状況を指し示す。p.13

 実現していたから、「天下布武」という印章を使ったというのは、発想の転換だな。

 全国統一とは、もっぱら征服欲にもとづく領土拡張の結果である。しかし最近の戦国大名研究では、戦国大名が闇雲に領土拡張をおこなったわけではなというのが共通した認識となっている(黒田基樹戦国大名』)。もちろん征服欲による他領侵略が皆無であったわけではないが、自領防衛のための他領攻撃、他大名や幕府との関係など政治情勢からもたらされた進出など、多様な事情があったことも明らかにされている(鴨川達夫『武田信玄毛利元就』)。p.16-17

 まあ、戦国大名の領国の構造からすると、野放図な領土拡大は、負担の面からも支持されないだろうしな。信長が頻繁に反乱を起こされたのも、大規模な戦争の継続に伴う負担に耐えられないというのが、背景にあったというし。

 信長と官位の関係について、現在の到達点は堀新氏の研究である。堀氏は、上洛以前の上総介・尾張守から、上洛前後に名乗った父と同じ官名である弾正忠の名乗りの意図、さらにその後の右大臣までの官位昇任を検討し、信長自身あまり官位にこだわっていなかったこと、天下統一や大名編成に官位序列を利用しようとしていないこと、官位制度を消滅させる考えはなかったことなどを論じている。p.141-2

 基本的には、関心なしと。

「朝儀復興」(公家一統)という機会に乗じ、信忠の任官にあたって、太政官符を発給するというその目的だけのために、秋田城介という官職に白羽の矢が立った。秋田城介を任じた太政官符の文例として知られていた天元三年の官符とおなじ文面の文書を出すため、あらかじめ実枝が按察史を兼ね、彼が上卿となって信忠の任官(太政官符)手続きを主導した、と考えられる。実枝は、太政官符という古来の文書を作成・発給すること(そのような文書の発給手続きを廃れさせないこと)が朝廷を維持することにつながると考えたのだろう。p.154-5

 古来の手続きの再興の手段として、信忠の秋田城介が行われたと。

 信長の重臣柴田勝家による北陸支配を検討した丸島和洋氏によれば、信長は勝家に支配を一任していたという。これは、ほかの戦国大名による地域支配と大差のない支配のしかたである。この点については、ほかの地域の検討でも同様の結果が出されている。すなわち信長による地域支配が、「統一権力」ということばのもとで把握されるような、これまでの戦国大名権力とちがった、何か目新しい革新的な方法でおこなわれたわけではないのである。
 丸島氏が「織田権力には、天下人(中央政権の主催者)と大名(領国の支配者)という二つの側面が内包されている」と指摘するように(「織田権力の北陸支配」)、天下人信長による支配は、天下静謐という理念と、大名としての領域支配の実践とがちぐはぐな状態のままでおこなわれていた、そう言うことができるだろう。p.265-6

 急激に巨大化したこと、予想外の将軍追放による、「制度」的な未整備状態。信長の支配が長く続いても、安定政権は作れなかっただろうな。