山田篤美『真珠の世界史:富と野望の五千年』

真珠の世界史 - 富と野望の五千年 (中公新書)

真珠の世界史 - 富と野望の五千年 (中公新書)

 タイトルの通り、真珠がどのように求められてきたのかの歴史。大玉の丸真珠は、真珠は、1万個の貝から一個程度しか出ない。その希少さのために、真珠は常に追い求められていた。前半は、古代のアジア諸地域での真珠文化、古代日本の真珠採取と輸出、近世ヨーロッパの拡大と真珠の関係。後半は、19世紀以降、真珠の需要の拡大、日本における真珠養殖の成功と世界市場の制覇、各地で真珠養殖が行われ日本の真珠産業が衰退していく状況など、真珠養殖を軸に描かれる。天然真珠時代の粒のそろった真珠の希少さというのは、現在からはよく分からないところがあるな。むしろ、現在だと、逆にバロック真珠が魅力的に感じるところも。あと、19世紀末から20世紀初頭の、ペルシア湾での年産が4000万個以上って、小粒のものも含めてだろうけど、途方もない数だな。大きさを問わなければ、千匹から一個くらい取れたようだから、それも含めてなんだろうけど、それでも漁獲圧は大きい。天然のアコヤガイの生息状況って、どうなっていたんだろうな。それでも平気なくらい、大量に増える種族だったのだろうか。


 ペルシャ湾、インド南端、日本、ヴェネズエラなどに生息するアコヤガイ、そのほかにクロチョウガイやシロチョウガイ、淡水の貝類からも採取される。このような産地の分布が、さまざまなドラマをうむ。
 前半は古代を中心とした、アジアの真珠文化。最初は古代の日本。古来、日本は真珠の産地として、中国では名がしれ、供給が期待される地域であったこと。逆に、日本国内では、あまり記述がないのが興味深い。また、縄文時代の鹿児島湾で、アコヤガイが集積した貝塚の存在から、早い段階から真珠の採取と交易が行われていたのではないかと指摘する。奈良時代には、中国の文化に習ったのか、葬送や装身具としての真珠の利用が盛んになる。しかし、平安時代になると着物の着合わせや香などがファッションの中心となり、装身具に関しては無頓着な文化が形成される。しかし、真珠の産地では、交易品として盛んに輸出されていたこと。
 続いては、古代の世界での、真珠の文化。バーレーンを中心とするペルシャ湾岸は、古来真珠の産地として著名であり、ギルガメシュの神話にも、そのような姿が反映しているという。また、紀元前2000年前ごろのアコヤガイの貝塚やアケメネス朝ペルシアの副葬品などの考古学的な発掘成果が紹介される。また、セイロン島とインド亜大陸の間に存在するマンナール湾も、古来からの産地であり、この真珠を管理することでインド南端のパーンディヤ朝は前4世紀から14世紀まで、長期にわたって存続することができた。また、インドの古代政治書『実利論』の豊富な真珠関係の語彙から、インドの真珠文化が高度に発展していたことが紹介される。オリエントで享受された真珠文化は、アレクサンドロスの遠征を通じてヨーロッパに紹介され、その後のローマ人は金銀を輸出して、さかんに輸入するようになった。キリスト教においても、真珠は、最高の宝石と評価される。


 ここから時代が飛んで、第四章と第五章は近世から近代のヨーロッパの話に。中世のイスラム世界やインドでどのような真珠文化があったのかというところが抜けてしまっているのは残念なところ。「世界史」といっても、ユーラシア全体を同じ密度で見るのは難しい。
 ヨーロッパ人のアメリカ大陸進出によって、ヴェネズエラの真珠産地が、ユーラシア大陸と接続される。真珠を入手するために、スペイン人が殺到、先住民を酷使し、カリブ海の先住民絶滅の一要因となった。ポトシ銀山発見以前の南米植民地経営を支えたのが、真珠の輸出だったのではないかという指摘は興味深い。北米の英仏植民地が毛皮で維持されたように、小規模な初期の植民地なら宝石が経営の基盤となっていてもおかしくない。宝石は、嵩が小さい上に、個人貿易・密貿易の対象となって数字が出にくい。結果として、経済史ではあまり扱われないが、初期の基盤として考えてみるのも大事かもしれない。同時期、インド洋に進出したポルトガルは、インド洋の貿易に参画。ホルムズを征服し、ペルシャ湾の真珠産地を押さえるとともに、セイロン島にも進出し、真珠を採取する漁民を支配するようになる。結果、主要な真珠産地がヨーロッパ人に押さえられることになる。ザビエルは、インド南端の真珠採取者をキリスト教化するために、派遣されたという。日本にも足跡を残したザビエルの活動が真珠に導かれたものだったのだな。こうして、真珠はヨーロッパに流入するようになり、宮廷の女性の身を飾るようになる。また、バロック真珠の工芸も発達する。
 19世紀になると、中東やセイロンの真珠産地は、イギリスの支配下に入る。しかし、真珠採取の一元的支配は困難だった。セイロンの貝の肉を全部腐らせて、細かいものまで採取する手法は、ヨーロッパ人には行いがたいものだった。また、ペルシャ湾の真珠採取もインドやペルシアの商人が前貸しを通じてガッチリと支配していたこと、現地のヨーロッパ人排斥の動きから、直接介入は難しかった。同時期、アメリカでは、ミシシッピ川のイシガイ科の淡水真珠貝が発見され、パールラッシュを起こし、オーストラリア大陸の来たアラフラ海では、日本人移民のダイバーによるシロチョウカイ採取と日本の南洋進出の動きが紹介される。


 後半は、日本の養殖真珠の盛衰とそれが真珠文化に与えた影響について。
 最初は、20世紀初頭の真珠バブルから。アメリカで新興の富裕層が出現、彼らが顕示的消費として真珠を買い求め、需要が拡大。真珠は天文学的な価格に上昇する。アメリカの成金たちは、粒の揃った真珠で組まれたネックレスを買い求め、そのために真珠商は何十年もかけて、同じ大きさの真珠を集めたという。このあたり、天然真珠ってのが、自然の偶然にいかにされるかといった感じだな。時間がかかるため、ものすごい価格となった。また、ダイヤと同じように真珠もシンジケートを組んで、買占め価格操作の試みが行われ、レオナール・ローゼンタールのシンジケートは、独占実現の手前まで行った。
 しかし、その真珠独占を阻んだのが、日本で開発された養殖真珠の生産技術であった。第七章は真珠養殖技術の開発と、誰が最初に「真円真珠」を作り出すのに成功したかの話。御木本幸吉は、アコヤガイに核を挿入し、半円真珠の生産に成功する。三重県の英虞湾の水面と海女を利用したアコヤガイ養殖、アコヤガイを利用した半円真珠生産の成功、さらに宝飾品に加工して販売するという垂直的統合が、御木本のアントレプレナーシップの才能が最も発揮された部分だと、著者は指摘する。一方で、御木本の独占に対する反発から、さまざまな場面で軋轢が発生したという。また、真円真珠に最初に成功したのは見瀬辰平であり、真円真珠の特許の名義人となった西川藤吉は歪なものしか生産できなかったこと。ここから、見瀬の業績を正当に評価するべきではないかと指摘する。その後も、核を大粒のものにするなどの改良が行われ、天然真珠に匹敵するものが生産できるようになる。神戸では、過酸化水素水での染み抜きや染色などの技術が集積され、真珠流通の中心地となっていく。
 このようにして、高レベルの真珠が、養殖により安定的に供給されるようになると、欧米の既存業者は強い反発を見せる。「ニセ真珠」として、裁判にまで持ち込まれる。しかし、天然真珠と同じ生成機構を使っている養殖真珠を見分けることなどできるはずもなく、そのまま普及していく。とはいえ、世界恐慌が始まるまで、真珠は高価なものであり続けた。また、養殖真珠の生産量は、ペルシャ湾産天然真珠の1-2パーセントにすぎなかったというのも興味深い。しかし、真珠の市場は世界恐慌で一気に壊滅。その後、真珠はモードに影響される度合いが一気に深まる。シャネルのブラック・ドレスと真珠の取り合わせ、しかも模造も本物も区別しない使い方が、規格化された日本の養殖真珠に格好の市場を与えることになる。しかし、第二次世界大戦の勃発が、日本の真珠養殖に停滞をもたらすことになる。
 戦後になると、真珠の養殖が再開され、真珠の輸出は外貨の稼ぎ頭になっていく。ディオールやシャネルのファッションは、真珠との相性がよく、需要に拍車をかけることとなる。結果、60年代まで、日本の真珠養殖は黄金時代を謳歌することになる。この時期、ペルシャ湾やインド南端、ヴェネズエラなどの天然真珠産地は壊滅状態にあり、真珠を供給することができるのは日本だけとなり、独占状態となる。需要に応じて、生産も輸出も伸び、輸出額は100億円を超え、西日本全体に真珠の養殖が拡散する。
 しかし、1960年代後半、ミニスカートとそれに適したスタイルの普及が、最初の陰りとなる。一気に輸出が落ち込み、輸出額は半減する。不況カルテルの結成による供給調整、マキシスタイルによる真珠需要の復活、国内市場がバブルによって栄えるなどの要因によって、70年代から80年代にかけて、生産者は繁栄を享受できた。
 しかし、バブル崩壊後、世界中に有力な競争者が出現し、日本の真珠産業は王座から滑り落ちていくことになる。日本の技術を導入し、タヒチのクロチョウガイではブラック・パールが生産されるようになり、オーストラリアではシロチョウガイによる特大真珠、フィリピンでは同じくシロチョウガイによるゴールデン・パールの生産が行われるようになる。また、中国では独自に養殖技術を開発し、淡水真珠が爆発的に増産され、供給されるようになる。グローバル化の中で、日本の輸出や生産量は減少していくことになる。
 長期にわたって養殖が行われてきた日本の海域では、廃棄物によるヘドロの蓄積と赤潮の発生、宇和海における感染症の流行といった、問題が発生し、競争力をさらに落としているという。これに対し、品種改良などによって対策が進みつつあることも紹介される。しかし、中国産のアコヤガイと掛け合わせて、病気に対抗できる貝をつくるって、遺伝子の交雑が心配。そもそも、天然のアコヤガイの生息状況って、どうなっていて、養殖によってどう影響を受けたのだろうか。


 とにかく盛りだくさんな内容の本だった。読むほうもそれなりに時間がかかったが、内容をまとめなおすのに、また時間がかかりまくった。そういえば、注と文献が分かれているのが、ちょっとめんどかった。しかも、文献が章単位で分かれているのでよけいに。


 以下、メモ:

 柊原貝塚と草野貝塚のアコヤガイは、実は私たちにもうひとつのことを示唆してくれる。それは海人がいたのかということである。
 アコヤガイというのは浜辺や潮間帯で拾える貝ではなく、海に潜らないと採れない貝である。ただ、海に潜るというのはそれほど簡単なことではなく、世界では真珠採取を専門とする民族集団が存在していることも少なくなかった。柊原貝塚と草野貝塚の大量のアコヤガイを考えれば、太古の鹿児島にも海人がいた可能性がある。草野貝塚からは軽石製の独歩船の模型も出土しているので、彼らは船で鹿児島湾にこぎ出し、そこで道具を使ったり、海に潜って、アコヤガイを集めていたのかもしれない。p.26-7

 真珠採取専門の民族集団か。すごいな。それだけ、利幅の大きいものであったってことなんだろうな。

 一七九六年、イギリスはセイロン島の沿岸部を植民地にし、さっそくマンナール湾での真珠採りを実施した。セイロン島の前の宗主国だったオランダが最後に行ったのは一七六八年だったので、二十八年ぶりの真珠採取だった。イギリスとしてはこの後も毎年実施したかったが、セイロン島のアコヤガイは集団移動することが知られていて、大量発生している年もあれば、ほとんど姿を見せない年もあった。したがって十九世紀のほぼ百年間に三六回の真珠採りがあったに過ぎないが、それでも真珠採取事業から上がる収益はセイロン植民地政府の主要な歳入となっていた。p.108

 毎年、海流具合なんかで、定着場所が違うってことなのかね。そうやって生息場所を広げているってことか。

 戦後になると、プラスチック製ボタンの登場で貝ボタン産業は衰退した。しかし、日本の真珠養殖に使われる貝製の核(芯)の需要が起こり、核の重要な供給地となった。今日、淡水真珠貝のなかには絶滅の危機に瀕している貝も少なくない。アメリカ政府は規制を強めているが、日本の真珠業者はこれを核戦争と呼び、対応に苦慮している。日本の真珠養殖は海とアコヤガイさえあれば生産できる国産のイメージがあるが、真珠養殖の核心的な部分を輸入に頼る構造になっているのである。p.122-3

 メモ。アメリカ産淡水真珠貝が、真珠の核になっているのか。で、輸入が止まりそうと。淡水の生物って、漁獲圧力に弱いんだよな。

 たとえば、一六九〇年に長崎出島に来日したドイツ人で、オランダ商館付の医師エンゲルベルト・ケンペルは『日本誌』のなかで、真珠貝はアコヤガイといわれ、ペルシアの真珠貝と似ている、アコヤ真珠は薩摩の近海と大村湾でしか採れない、薩摩では琉球のシナ人に売っているらしい、大村では毎年三〇〇〇両シナ人に売っていると述べている。p.152

 かなりの収益だったんだな。で、ほとんどが中国に流れていたと。


 文献メモ:
クリスティン・ジョイス他『真珠五千年の魅惑』徳間書店、1993
松月清郎『真珠の博物誌』研成社、2002
杉山二郎他『真珠の文化史』学生社、1990
イアン・バルフォア『著名なダイヤモンドの歴史』徳間書店、1990
山口遼『すぐわかるヨーロッパの宝飾芸術』東京美術、2005
保坂修司「真珠の海:石油以前のペルシア湾(1・2)」『イスラム科学研究』4号、6号、2008、2010
大島襄二編『トレス海峡の人々』古今書院、1983
小川平『アラフラ海の真珠:聞書・紀南ダイバー百年史』あゆみ出版、1976
御木本真珠島他編『御木本真珠発明100年史』ミキモト、1994
チャールズ・D・ベルグレイブ『ペルシア湾の真珠:近代バーレーンの人と文化』雄山閣、2006
田崎俊作ゴーイングマイ・ウェイ:真珠と共に歩んだ74年』財界研究所、2003
西村盛親『美しき真珠戦争』成山堂出版:2001
パトリック・スロ『タヒチアンブラックパールの歴史』NBC Interactive 2011