高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

 タイトルの通り、平安京の設置から近代に入るまでの歴史を描いた通史。新しい研究成果が盛り込まれていて、当面、京都通史のスタンダードになるんじゃないかな。まあ、一方で、「都市京都」というよりは、「都」や政治史の側面が強いように感じるが。それでも、一般民衆の住居や周辺の環境などにも目配りされている。しかしまあ、こういう本を読んでると、私は京都でなにを見てきたのかなという気分になる。大学のころ、さんざんうろついたはずなんだが、見てないところの方が多い。特に寺は興味がなかったからな。あと、京都って碁盤の目型というけど、微妙に道が斜めになっていて、方向音痴には逆に分かりにくいんだよな。いったん、都市的な場が消失しているところ、結構多いし。
 時代的な区切りとしては、第一章が平安京の造営、第二章が平安期、第三章が院政期、第四章が鎌倉時代、第五章が室町前半、第六章が室町後半/戦国時代から秀吉の京都大改造まで、第七章が近世、結びで近代という配分になっている。だいたい、平安京→中世期京都→戦国期京都→近世京都といった変遷をたどっているのかな。応仁の乱による京都の縮小、さらに秀吉の京都大改造が現在につながる大きな画期といえるかな。現在の京都の姿の枠組みは秀吉の京都の継続だし。


 第一章は平安京大内裏などが中心。千本通りが朱雀大路の跡だというのは、よく知られた話だが、最近は発掘が進んで、どういう状況だったか詳しく分かるようになっているのだな。あとは、律令国家の政治都市であり、街路が空虚だったそうで。まあ、幅84メートルの道路とか、現在でも広すぎてもてあますだろうな。むしろ飛行機の滑走路。七条小学校の発掘で出土した住宅の話も興味深い。湿地に、宅地の分だけ盛り土して、家を建てる。空き地にゴミ捨てまくりとか。最終的に、平安京造営と蝦夷戦争による民衆の負担が過重になり、どちらも途中で諦めることに。右京の西半分は、何も立てられないまま終わったと。
 第二章は平安時代の展開。平安時代の貴族の邸宅と言えば、寝殿造りが紹介されるが、実際の発掘成果からは、明確に寝殿造りの邸宅はほとんど出ていないと。むしろ、寝殿造りは儀礼など特別な用途に使われた建物で、ふだんの居住用ではなかったのではないかという。また、死者の葬送が変化し、家の近くに葬る形式から郊外の「野」とつく土地に遺棄するように変化する。人口の集中と共に、衛生状態も悪化する。そもそも、平安京には下水兼用の水路が設けられていたが、そこにゴミや屎尿が集中し、悪臭を漂わせる。一般人は、街路上で垂れ流す。このようにあちこちに散らばった屎尿が、鴨川の氾濫で拡散し、疫病を流行らせる。疫病への対策として、疫神信仰、御霊信仰が広まり、のちの祇園祭につながっていく。京都周辺では、大規模な寺院が創建される。
 第三章は院政時代。摂関家に包摂された天皇が、自律し、独自の「王家」を形成していく。王家は、東山白川の地に拠点を置き、六勝寺や宮殿などの整備を進める。この建設事業は、受領などからの献納でまかなわれた。高さ81メートルの八角九重塔とか、すごいな。鳥羽にも、宮殿が建設され、阿弥陀堂と宮殿が合体した複合体が特徴となる。一方、摂関家は宇治の平等院を整備し、平家は六波羅の地に拠点を構える。平安京内では火災が頻発し、大内裏も頻繁に消失する。11世紀前半までは再建が行われたが、その後は再建がスローダウンする。大内裏内の官庁も、政務に利用されなくなり、業務を請け負った家の私宅で実務は行われるようになる。利用頻度が低下した大内裏は、南面の大垣など外面、そして利用頻度の高い内裏などの再建が優先して行われるようになる。荘園領主が集住する都市となり、また町並みも街路での商業が重要になり、街路から閉じていたかつての町から、街路に開いた四面丁へと変貌していく。
 第四章は鎌倉時代。荘園制は再建されるが、武士が確固たる政治的地位を確立する。内裏や京都の治安を維持する京都大番役御家人に賦課され、京都には地方からの武士が多数滞在するようになる。辻には篝屋が設置される。大内裏の荒廃も進み、「内野」と化す。即位儀礼が行われる太政官庁や朱雀門、宗教的意義を持つ神祇官庁や真言院だけは維持される。七条町など、商業的中心地が発展するとともに、朱雀大路など大路が侵食され、巷所となる。郊外には、新興の禅宗や浄土宗などの寺院が建てられ、被差別民の集落も出現する。
 第五章は室町時代相国寺と室町殿が、一条大路の北方に建設され、北に政治的中心地が拡張する。室町将軍とその奉公衆、さらに在京する守護とその配下など、多数の武士が居住する武家の都となる。また、郊外では嵯峨に寺院や宮殿が集中する都市的景観が出現する。商業の発展も続き、京中に、金融業を営む土蔵酒蔵が多数表れ、これが室町幕府などの財源となる。祇園祭山鉾巡行が、上からと下からの両方の動きの中で形成されたことが指摘。人口の集中にともない、燃料の需要が増大、京都周辺の植生は照葉樹林からアカマツ林へ、さらにはげ山へと、植生の破壊が進行する。また、はげ山化にともなって、水害も頻発するようになる。
 第六章は室町末、戦国から安土桃山時代。応仁・文明の乱とその後の治安悪化、さらに守護大名の京都退去にともなう需要の低下によって、京都の町は縮小する。上京と下京に別れ、室町通りのみが、連続的な市街となる。また、治安の悪化に対応して、町や町組単位で堀や土塁が築かれ、惣構が形成される。祇園祭の再興と、山鉾の維持を核とした、共同体の形成。都市の衛生環境は、15世紀末までは街路での垂れ流し状況が続くが、その後は近郊で屎尿が肥料として使われるようになり、共同トイレが普及、劇的に改善する。共同トイレの屎尿は、周辺農村に売却され、売却益が町の会計に組み入れられるようになる。信長時代には、戦国期の京都が継続するが、次の秀吉時代に大幅な改造が行われる。御土居の建設、寺院の寺町・寺の内への移転、新街路の設置による中心部の長方形地割化など。また、聚楽第伏見城などの、築城が行われる。
 第七章は、近世。京都は三都の一つ、宗教や文化の中心として生き残っていく。幕府が資金を注ぎ込んで、寛永年間の寺院や内裏の再建・復興ブームが起きる。ここで再建されたさまざまな施設が、京都を擬似王朝的な空間とし、後の歴史都市としての性格を維持する上で重要な役割を果たした。しかし、近世を通して、京都の地位は低下傾向にあり、「花の田舎」と揶揄される状況になる。
 結びは近代。皇居の移動にともなって、京都は明治に入って衰退する。その再建策として、早い段階での小学校整備や琵琶湖疏水等の開発事業が行われる。また、天皇制国家の歴史を示す場として、あるいは町おこしのために、文化都市、歴史的遺産を資源として利用とする動きが起こるようになる。後半は文化財保存の話。なんだかんだ言って、「古都」としての、面的な市街の保存にかなり失敗しているような気がするが。最近の景観条例で、なんか全体に茶色っぽい色にしているけど、あれってなんか違うような感じがするんだよな。伝統的建築と安全性や快適性をどう組み合わせるか、町屋や職住一体の空間をどう維持するかが問題のように思うのだが。


 とりあえず、時代時代に激しく変化しながら、時代に適応してきた姿が描かれている。


 以下、メモ:

 貴族はしばしば転居し、主人の不在は邸宅を荒廃させる。紀貫之は国守となって土佐に赴任し、その家を隣人に預けるが、帰京したとき想像以上に「こぼれ破れ」ていたので、歎き悲しんだ(『土佐日記』)。陽成上皇の後院である陽成院は、多炊御門南・西洞院西・二条北・油小路東の南北二町を占めていた。しかし上皇死去後、中央に冷泉小路が貫通し、「北の町」は「人家共」となり、「南の町」は池が少し残ったが、そこにも「人」が居住している(『今昔物語集』)。これらの空地が再開発されたとき、そこを占拠する「小人」との間に紛争が起こった。平安京では宅地の私的占有権は強固に存在したが、小屋の建設や宅地の耕地化など占有・用益の権利は、いちがいに排除されていなかったのである。p.50-51

 平安時代の占有の状況。放置されている邸宅などは、占拠されて人家になっちゃうと。

 また円爾の弟子に謡曲で有名な自然居士がいる。自然居士のような下級の宗教者、卑賤な芸能者(放下、暮露暮露)たちは、禅を、修業や学問無用で、狩猟や生き物を殺すことを生業とする者をも成仏させ、神祇を軽んじることを許すものと理解していた。室町期の禅宗は、武家の保護を受けた体制仏教そのもので、難解な禅思想や高度な文化・芸術性を特徴にしている。しかしこの時期の禅宗は、その後切り捨てられてしまった要素、すなわち延暦寺から「時代の妖怪」と糺弾されたような(「山門訴申」)、民衆にも受容される反体制的な異端としての一面も有していたのである。p.129

 なんか今からは想像もつかないパンクさ。

 輸入品は生糸・高級織物・陶磁器・書籍・書画などで、国内で珍重された。銅銭は義満時代に多くもたらされ、貨幣経済の発展をうながした。しかし、応仁の乱後になると、中国でえた銅線で有利な中国商品を購入して持ち帰ることが多くなり、一六世紀の初めには、かえって日本より銅銭を持ち出して、中国商品を購入することさえおこなわれるようになる。p.154

 で、中世末期には、国内で貨幣不足になると。中国でも、そのあたりの時期は銅銭が不足していたらしいが。

 早島氏は、幕府が祇園山鉾の巡行を従来通り権力を飾り立てる面から重視したのにたいし、下京地下人は、祇園会を御霊信仰の面から、罹災地域住人の祭礼としてとらえたという。そして、一六世紀の中葉までに、山鉾を維持するため、中心となる町(親町)がそれを補助する寄町を組織(町組、後述)、財源として各屋地から均一に銭を出させた。そのため屋地の所有権が町外に移らないように売買の規制も設けるなどして、山鉾の運営を軸に町共同体が確立した、と想定している。この想定はさらに論拠を集め一層具体化される必要があるが、都市民の自治という一般論から一足飛びに「町衆」の山鉾運営を説く従来の見解に比べ、史料に即しより説得的である。本書ではひとまずそれにしたがうことにしたい。かくして山鉾巡行は、ようやく京都の民衆が主宰するものになっていった。p.187-8

 山鉾の維持を軸とした町共同体の形成。

 また近世初期には、御所の改築、聚楽第伏見城の解体などによって、既設の建物の京内移建も進んだ。仁和寺についてはすでに述べたが、確かなところでは、南禅寺大方丈が天正時造営の女院御所の対面の殿舎を移築したもの。大徳寺唐門が聚楽第の遺構であることがほぼ確実、現在は否定の意見が多いが、西本願寺飛雲閣も古くから聚楽第の遺構といわれる。近江の戦国大名浅井氏ゆかりの養源院は伏見城の旧材を用いたと伝えられる。p.233

 この時期、大建築時代で、用材が確保しにくくなっていたという事情もありそうだな。