亀田俊和『南朝の真実:忠臣という幻想』

 まあ、副題が明示している如く、実際には南朝は非常に分裂含みの集団だったと言うことを、これでもかこれでもかと示す本。建武新政期の路線対立、後醍醐皇子の分派活動、最末期の強硬派と和平派の方針対立などなど。末期になると、天皇の即位退位といったことさえまともに記録されていないと言うのも泣ける。
 すでに、鎌倉幕府打倒前から、大覚寺統は分裂含みの情勢にあったという。後醍醐自身が、傍系で、兄の子供や叔父などとの競合に晒されていたという。そこを、自分の子供を帝位につけるために無理したと。そもそも、後醍醐のなんというか自己中心的な人格がなければ、南北朝ってここまで混迷しなかったのかもしれないなとも思う。
 あとは、南朝をささえた中心人物、北畠親房・顕家父子や楠正成、新田義貞らの政治思想が、後醍醐とかなり違っていたこと。後醍醐があくまで天皇親政にこだわったのに対し、ほかの人々が武士による幕府を容認していたこと。むしろ、敵対した足利尊氏の方が政策的にも、個人的な心情的にも、後醍醐に近しかったのではないかというのも興味深い。結局、周りに押されて、尊氏は後醍醐との敵対に踏み切る。このあたり、担がれた人物の難しさって感じだな。
 あるいは、建武新政がむしろ武士寄りの政策で、不満は寺社や公家から出ていたこと。守護や国司に恩賞宛がいの実施を命じる施行状の発行や、広域行政単位の委任など、建武政権の新機軸はいくつもあり、これらは足利幕府でも引き継がれたこと。足利幕府は、政策的には、建武政権の後継政権的性格が強いそうだ。まあ、南朝に関しては、「行政」というほどの施策を展開できなかったとも言えそうだけど。


 ディテールとしては、楽しめる本。ただ、「皇国史観」が北朝に投げていた言葉を、そのまま南朝に投げ返しただけで、そこから一段上のステージに行ったとは言い難い。南朝北朝も、同様に分裂し、対立した。さらには、室町後期、応仁の乱のころでも、現在から見てあきれるくらい無節操に敵味方が入れ替わっている。生存戦略として敵味方は便宜的に変わると言ったレベルを超えた、あまりに無節操な変節振りを可能とした、背景と言うか社会構造はどこにあるのか。そこが問題なんじゃなかろうか。その点物足りない。
 あと、現在の政治家の行動と似ているとわざわざ誘導するのも無粋な感じが。ガチで殺しあっていたり、心性もそうとう違う出来事を、一緒くたにするのはどうだろうか。このレーベルで、その種の安っぽいビジネス書みたいな話を求めている人っているのかね。


 ところで熊本の南北朝と言えば、一貫して南朝側に立って戦った菊池氏が真っ先に想起される。しかし、このように南北朝期の社会においては、敵の敵は味方とばかりに、寝返りは常態であったとすると、一族一丸となって、同じ立場で戦い続けた勢力は、むしろ浮いているというか、異様な感じがする。菊池氏は、なぜ執拗に戦い続けたのだろうか。
 元の出自が大宰府の府官だったそうだから、大宰府へのこだわりがあったのか。あるいは、頭を押さえつけられた北条家に相当キレていたのか。足利氏も、九州にコネがあったそうだし、同じようにキレられていたとか。