仁藤敦史『都はなぜ移るのか:遷都の古代史』

都はなぜ移るのか: 遷都の古代史 (歴史文化ライブラリー)

都はなぜ移るのか: 遷都の古代史 (歴史文化ライブラリー)

 うーん、よく分からん。古代史の学説史なんかをよく知らない上に、古代の文献に慣れていないから余計に、読むのに苦労した。あとは、特に最初の方の歴代遷宮の時代が、明確な結論がなかったのが、読みにくくしたかな。3日ほどかかった。


 全体としては、人格的支配から代替わりごとに、統治システムを再編するべく宮殿を移動していた時代から、飛鳥地域に累積的に恒常的施設が整備され同地域内で移動を行う「倭京」段階、大極殿儀礼の場を集中する都城段階への移行という流れが大枠となる。さらに、外交重視、外交儀礼の場としての難波宮、飛鳥地域の民力休養と中下級官人創出の手段としての大津宮
 さらには、藤原京が最初は、近江から移動させた官人の居住区として方形の地割りが設定されたこと。その後、段階的に律令的な身分制原理にともなう居住地編成や天皇の一元的な宮廷支配の確立が目指されたという。途中で、何度も構想が変更されて、矛盾があったことが、新たに平城京奈良盆地の北部に建設した理由だと言う。また、在地に自律的な支配体制を持ち、独自の力を持つ豪族たちを、本拠地から切り離し、国家の官職のみに依存する官僚を創出するためにも、遷都が行われたと。
 最終的に、長岡京平安京の段階で、難波宮などの副都を必要とする段階を脱し、一元的な天皇権力が創出される。また、平安京段階になると、各地の豪族が、都の戸籍を欲する状況がおきる。最終的に嵯峨天皇の時代に、平城京遷都の策動を制圧したことで、平安京への固定が確立したと。