佐藤賢一『ヴァロワ朝:フランス王朝史2』

 カペー朝が15代、341年。ヴァロワ朝が13代、261年。後者が100年ほど短いにも関わらず、ページ数では100ページほど多くなる。それだけ、ヴァロワ朝の時代は波乱にとんでいる。前半は、百年戦争の時代。イングランド王がヴァロワ朝の継承に異を唱え、介入してくる。さらに、ブルゴーニュ家をはじめとした諸侯との対立に苦しむ。しかし、この混乱の中で、「王国」「公」というものが意識され、単なる巨大諸侯ではない行政システムが生れてくる。イングランド王の挑戦を退けたあとは、フランスがヨーロッパの国際政治の中心を占める時代に。15世紀末から16世紀、イタリア戦争、そしてヴァロワ朝のフランソワ1世とハプスブルク家のカール5世の因縁の戦い。しかし、宗教改革の時代に突入し、フランスでもプロテスタントカトリックの対立が先鋭化。「3アンリの戦い」の中で、ヴァロワ朝は絶え、ブルボン朝の時代に突入する。


 従兄弟の継承に対し、イングランド王は自分にも継承権があると主張し、フランスに侵入する。カペー朝が順調に実子による継承を実現してきただけに、国内的にも正統性が不足していたのだろうか。たびたびの敗戦、シャルル5世の攻勢、そして狂王シャルル6世の時代にはブルゴーニュ派とオルレアン派の派閥対立が抑制できなくなり、王国に危機をもたらす。しかし、このような国家の危機が、萌芽的ながら「フランス王国」というナショナリズムを産みだす。また、イングランド軍の「騎行」と称される略奪戦術や解雇された傭兵が盗賊化し治安を悪化させると言う問題に対し、全国に年貢とは異なる税金を課し、国難に対処する。ここに初めて「税金」というものが出現することになる。近世の国家は、百年戦争を通じて形成された。
 中世後期以降の戦争は、傭兵によるプロフェッショナルな軍隊が担うようになり、戦争の経費が飛躍的に増える。16世紀にはいると、さらに軍隊の規模が拡大し、経費がかかるようになる。ヴァロワ朝の諸王は、三部会議を開催し、援助金や税金賦課の同意を取り付ける、官職売買を行なうなど、軍資金の確保に腐心することになる。資金不足から、勝ち切れない状況に度々遭遇することになる。16世紀のフランス王家は、度々破産しているはずだけど、そのあたりはあまり言及されなかったな。
 あとは、宮廷の派閥争いが、国内政治だけではなく、国際関係にまで影響すると言うのも興味深い。まあ、超大国の派閥といえば、当然かもしれないが。百年戦争時のブルゴーニュ派とオルレアン派もだが、ヴァロワ朝末期の宗教戦争も人的結合と結びついて、悪化する。最終的に、宗教的な内乱の中で、王朝の交代が起こる。ブルボン家は、かなり系譜が離れた傍系で、その点で、ヴァロワ朝の継承より、「革命的」といっていいのではないだろうか。
 まとめで、ヴァロワ朝が国の末端まで支配を及ぼすことができなかったと指摘しているが、この問題は、結局ブルボン朝も克服できなかったのではなかろうか。最終的にフランス革命後まで積み残されるように思う。


 以下、メモ:

 意外かもしれないが、当たり前ではなかった。カペー朝末期のドタバタ騒ぎにみるように、王位継承は慣習だの、前例だの、あるいは政治力だので決まるのもので、これという法律に基づくわけではなかった。どの国も似たようなもので、十四世紀末でみても、きちんと法制化されていたのはフランスと、あとはドイツくらいのものだった。ドイツの場合は神聖ローマ皇帝の帝位継承で、こちらでは世襲でなく七選帝侯による選挙制を明文化した金印勅書が、それにあたる。p.91

 まあ、そもそもが成文法と慣習法の境目みたいな時代だしな。

 デュ・ゲクランまで不穏な動きをみせるにいたって、シャルル五世は予想外の苦戦を強いられた。このブルターニュの反抗が端的に物語るように、王だけが図抜けた実力を持つ、王都パリからフランス全土を一元的に支配するという方法は、必ずしも歓迎されたわけではなかった。「中央集権国家」など王家の都合でしかないと、むしろ大いに嫌われた。仮に非常時を乗り切る方策としては受け入れられても、いったん平和が取り戻されれば、もう無用の長物としてしか見做されなくなる。p.93

 各領邦の独自の慣習や利害が、強力に主張され続けたと。これに対し、平時に、王家の「統治」を浸透させるのは、非常に困難であったと。非常時の臨時課税はともかく、平時に続けるのは、反発が大きく、また認めさせるには王家の力も限られていたと。14世紀末でも、こういう状況だった。

 それでも末っ子は末っ子である。長子としての責任感に縛られることで、かえって小さくなってしまう憾みとも無縁だった。ひたすら愛され、のびのびと成長して、ここに自由奔放な愛されキャラができあがる。実際、フランソワ一世はよく笑う男だった。にこやかで誰にでも愛想がよく、弁舌爽やかで、好奇心旺盛、女たちに囲まれて長じた賜物で、趣味も洗練されていれば、物腰も優雅とくる。p.230-1

 ルネサンス君主の代表、フランソワ一世。キャラとしては人気がありそうだけど、まあ、いろいろと禍根を残したよねと。

 フランソワ一世としては、勝負はこれからという気分だったかもしれない。カール五世にしてみても、これくらいでは許されないと、まだまだ気持ちが収まらなかったに違いない。カアアと頭に血が上るまま、わけがわからなくなっているというほうが正鵠を射るだろうが、だからこそ動いたのは女たちだった。フランス王の母摂政ルイーズ・ドゥ・サヴォワと、皇帝の叔母で、こちらも母親がわりという低地諸州総督マルガレーテ・フォン・ハプスブルクのことで、実をいえば両者は一五二八年五月頃から接触を始めていた。p.247

 中世のヨーロッパ史でも、女性の役割って大きいよなあ。母親が大きな影響力を持つとか、領邦の女性相続人の動向で国際的な構図が一気に変わるとか。

 寿命というものは、時代を遡れば遡るほど短い、時代を下れば下るほど長いというのが、普通である。食べ物もよくなるし、医学も発達する。衛生状態もよくなるからだ。あてはめれば、カペー朝の時代のほうが、人々は長生きなはずである。戦没が多いのかといえば、そこは王の話であり、カペー朝の時代でもひとりしかいないし、ヴァロワ朝の時代では皆無である。努めて探そうとしても、騎馬槍試合の事故に倒れたアンリ二世や、暗殺に果てたアンリ三世の事例があるだけだ。黒死病の上陸を特筆しなければならないかといえば、大打撃を受けたのは庶民の方であり、この疫病で命を落とした王はいない、やはり、解せない。p.351

 うーん、中世を通じて、生存条件はあまり変わらなかったんじゃないかね。王の生活は、人口増減による食糧の分配率も影響しないだろうし。まあ、ヴァロワ朝の諸王の寿命が顕著に短いとすれば、ひとつには大規模な軍勢による外征が増えたというのがあるんじゃなかろうか。大規模な軍隊ってのは、それだけで疫病の元だし。あとは、やはり本書で指摘されているストレスはありそう。