高橋秀樹『三浦一族の中世』

 鎌倉時代前半に力を振るった三浦一族が、中世の歴史的な流れの中にどのように位置づけられるかを描いた通史的な本。中世社会の特色、その中で、三浦一族が占める位置。先に読み始めていた本を追い抜いて、サクサクと読み終わってしまった。
 中世社会の前提としての、「家」と「職」。中世においては、位階の昇進パターンが決まった「家」のランキングがあり、貴族・武士はその体系の中で生きていたこと。この家を維持するものとしての記録類の重要性。また、そのような地位を裏付けるのが、職権と収益権が一体化した「職」というもので、これが継承されて家が維持された。また、この職は荘園制の中で重層的な体系が形成されていた。
 第一章は院政期。三浦一族をはじめ、地域の豪族は、国衙や郡司などの国家制度と密接な関係を持ち、力を伸ばしたこと。源平藤橘などの中央貴族との血縁関係は、後に創作されたもので、三浦一族は三浦半島に土着した出自不詳の豪族が起源であろうこと。源氏との関係はかなり後まで薄くかったという。保元・平治の乱の錯綜した政治的関係も興味深い。
 第二章は内乱から鎌倉幕府の成立期。東国における内乱期の武士団の向背は、平氏がその国にどの程度進出していたかの影響が大きかった。武蔵や常陸駿河平氏知行国となり、武士たちは国衙を通じて平氏と強く結びつくことになった。一方、平氏の影響があまり及ばなかった伊豆・駿河の武士が、頼朝の挙兵の中核になった。三浦一族は長老である義明や佐那田義忠などの犠牲を払ったが、それだけに頼朝の絶対的な信頼を得るようになり、幕府の中核で活躍するようになる。特に和田義盛は侍別当として取りまとめに重要な役割を果たす。
 第三章は鎌倉時代前半。頼朝死後、鎌倉幕府の内紛の中でも一貫して北条氏と連携し続ける。鎌倉幕府の宿老として力を振るい、また朝廷との交渉の窓口も勤めた。和田義盛の反乱が非常に大規模なものであったこと。鎌倉幕府そのものの倒壊を狙っていたような動き。承久の乱では、北条氏の排除が狙いであったが、鎌倉幕府対朝廷の戦いにすりかえられ、朝幕の力関係が大きく変化したこと。世代交代によって北条氏の外戚が、三浦氏から安達氏に代わったことが、宝治合戦の主要な原因であり、三浦一族の嫡流はここで途絶えることになる。また、この時期、三浦一族は各地に国司・守護・地頭などの職を得て、広がっていくことになる。
 第四章は鎌倉後半以降。宝治合戦を生き残った佐原系三浦氏は、相模や遠江に力を保ち、また越後には和田義盛の弟の系統が生き残った。彼らは幕府内で一定の力を保ちつつ、鎌倉幕府滅亡、南北朝内乱を生き抜く。越後の「三浦和田」一族は内紛を繰り返しつつ、上杉氏家臣となって生き延びる。三浦介系は北条早雲に攻め滅ぼされる1516年まで、奥州で戦国大名化した葦名氏は伊達政宗会津を追われ、佐竹氏の庇護を受けながら17世紀まで残存する。また、三浦一族の事跡は様々な作品に取り入れられ、近世の武士の権威付けの系譜擬装に利用されたという。それだけ、著名な存在であったということだな。
 保元・平治の乱や源平内乱期に、天皇ないし上皇の存在が非常に大きかったことも興味深い。天皇ないし上皇の身柄を押さえた側が、大義名分を得る。逆に、肝心なときに身柄を失うと、追討の対象になってしまう。想像以上の重要性。


 以下、メモ:

 以仁王事件のころ、三浦義澄や千葉胤頼は在京しており、宇治合戦に官軍として動員された。『吾妻鏡』は「番役により在京する所なり」としている(治承四年六月二十七日条)。『吾妻鏡』建久三年(一一九二)十一月二十五日条には平氏政権下における武蔵国の武士が在京大番役を勤めていたことが記されている。武蔵国は平家の知行国であるが、相模国は平家との結びつきが弱いから、平家の私的な動員ではあるまい。義澄や胤頼に課せられた「番役」は、中央政府から国を単位に制度的に課せられた在京大番役だったと考えられる。p.70

 なんかこの時期だと、中央政権はすっかり無力になっていたと思っていたが、大番役を賦課できるだけの力があったんだな。つーか、番役って、朝廷で制度化されたんだ。

 軍事指揮権の実態を重視する鎌倉幕府研究者からすると、この右近衛大将就任は名目的なものに見えるらしい。もともと「幕府」の語が出征中の将軍の陣営や近衛大将の居所を指したから、この語義にとらわれているかのように見られがちである。しかし、さきに平重盛・宗盛が近衛大将の官職を得たことが平家の家格にとって重要な意義があったことを述べたが、やはり諸大夫層に属していた鎌倉殿(頼朝)の「家」にとっても家格の壁を打ち破る大きな意味があった。のちに室町将軍家が近衛大将の官職を自家の昇進コースに取り入れたことを考えても、当時の家格社会のなかで、近衛大将就任は大きな意味を持っていたのである。武士もこの家格社会に属していた以上、その意義を無視することはできない。p.86-7

 「家格社会」のなかで、頼朝の右近衛大将就任の意味。

 個々の御家人を掌握し切れていない幕府は、公事を賦課するための制度として、この「家」の親族関係を利用し、「某跡」という形で公事を賦課し、その「某跡」の惣領が「某跡」の所領を知行している者に対して公事を配分し、徴集に当たる制度をつくり上げた。この惣領が庶子を統率して幕府に公事や軍役を負担する制度が惣領制である(かつては、家長=「惣領」が一族構成員=「庶子」を統括する本家―分家関係的な中世武士の親族関係を惣領制と呼ぶこともあった)。p.159

 御家人を個人として把握していないって、鎌倉幕府ってザルザルな制度を採っていたんだな。で、把握しきれないから、ある程度まとまった「職」を利用して、後は一族で何とかしてくれと。