「無漏寺碑」

 なんども挑戦しつつ、読めなかった石碑。ここのところ、整備の動きがあって、その一環として、この無漏寺碑も磨かれたようだ。いままで、地衣類なんかで読みとれなかった碑文が読みやすくなっていた。
 今は無住寺だけど、本来は無漏寺のほうがメインだったんだろうな。で、廃仏毀釈で神社がメインになったと。由緒はなかなか深そうなんだけどね。
 台座の四周に関係者・寄付者名が刻まれているが、さすがに多すぎてやってられないので、建設年次だけメモして、後はぜんぶ省略。




石碑左面

 世安は、平安時代以来肥後国府の所在地たる飽田郡二本木の東に當り、国府
り東御船、阿蘇方面に至る白川の渡渉点、旦過の瀬に接する要衝の地である。
旦過とは、来往する客僧を、老少を問わず一宿させ、接待する禅林の古例である。室
町期の肥後では、守護菊池氏を中心として禅学が盛んに行われたから、雲水の往
来も多く、旦過の接待もなされたのであろう。即ち、その旦過の接待所が、この無漏
寺である。いま無漏寺什物として、楠一木作りの十六羅漢像のほかに、大智禅師無
漏接待と題する詩「聖凡一等接、飽飯鼻○々、一○月生海、幾家人上棲」との、
落合東郭氏の書があり、往時の面影を物語を物語っている。
もと世安は託麻郡神蔵庄與安名の地である。およそ七百五十年前承元三年十二



石碑裏面

月豊後の大友能直は、神蔵庄地頭下司職に補せられ、二男詫摩能秀に当庄を譲与
した。即ち世安は、豪族詫摩氏の本拠の一つである。戦国末期、天正八年三月、大友氏
の後援をうけた阿蘇宮司の宿将甲斐宗運は、島津氏に属する鹿子木、城、宇土
諸氏連合軍と、旦過の瀬に戦って大勝を博した。この世安一帯は、激戦の中心地と
なり数多くの戦死者を出した。その遺骸を埋めた墓の一つが、木庭殿塚である。
無漏寺の縁起について代々伝えられる所によれば九百四十年前、後一条天皇
寛仁元年、近江国守左衛門督三位中将光成という横笛の名手があり、讒にあい、肥
後に配流された。妻女白菊の前は、光成を慕って二児を伴ないはるばる飽田郡
橋の津に来たが、夫に会うことを得ず、悲嘆のあまり、白川のヨモが渕に身を投じ


た。以来里人は、白菊の渕と称した。光成は讒晴れて帰京するにあたり、白菊の前の
供養のため、この渕のほとりに、無漏寺と白菊の塔を建て、二児のために、二子大明
神の社を営んだという。
 世安の有志、碑を建設せられるに当り、来たって文を需めらる少年時代この地に住
み、この歴史伝承を想い、懐旧の情にたえず、一文を草する次第である。


      昭和三十四年十二月         杉本尚雄識



台座正面

奉献
昭和三十四年十二月二十八日
(以下、人名省略)