服部英雄『蒙古襲来』

蒙古襲来

蒙古襲来

 同時代史料や潮汐・実際の距離などから、両度の戦争、文永の役弘安の役が、具体的にどのように展開されたのかを復元し、通説に挑む書物。同時代の貴族の日記から、文永の役での元軍が数日にわたって展開したといった指摘、「八幡愚童訓」が史料としてまったく当てにならないといった指摘は、素人として納得できるところ。しかし、他は、実際に生の史料を扱いなれないと、当否もわからんな。
 そもそも、蒙古襲来の戦闘そのものが、今まで、詳細に検討されなかったのは、少なくとも戦後の歴史学が、「戦闘」というトピックに興味がなかったからだと思う。元軍がどう動いたかや「神風」の実態はどうであれ、最終的に、元軍は撤退し、寺社は外国退散の祈祷で恩賞を受け、鎌倉幕府が西国の武士を直接掌握し得宗専制が進んだという大きな歴史的流れの叙述には、あまり影響しないしな。事件よりも、社会構造に関心をもつ学問だからなあ。ただ、丁寧に史料を読めばここまで議論できるのだなとは思った。
 500ページ超の著作だけに、取り上げられるトピックは多岐にわたる。おおまかにいえば、三つに分けられる。第一に文永の役の実際の戦いや元側の兵力の検証。第二に竹崎季長の出自と蒙古襲来絵詞の検証。第三が弘安の役の推移。さらに、石築地の検証や蒙古襲来に関して作られた偽文書に関する章が最後につく。
 第一章は、蒙古襲来の前提としての、日宋関係。軍需物資である硫黄などを供給する、宋の友好国であり、攻撃の必要性があったこと。貿易の利益の大きさ。さらに、チャイナタウンである「唐房」が山口県から鹿児島に至る、九州の北、西、南岸に点在していたこと。貿易の利益が大宰府の現地有力者の争いを引き起こし、唐房の襲撃などの危険を引き起こすことがあったこと。リスクの分散のため、複数の勢力と関係を持ち、場合によっては博多湾岸以外の唐房で貿易を行なうなどのリスクヘッジが行なわれたこと。博多湾岸の唐房地名の現地調査と立地の特性などが紹介される。最終的に、戦国末期には同化して、消滅するが、日本と中国の間を取り持つ存在だったと。
 第二章、第三章が文永の役の展開。「八幡愚童訓」がまったく信用し得ない史料であると喝破し、「勘仲記」などの京都の公家の日記の記述と、連絡のタイムラグの検討から、10月の20日から27日の一週間ほど、博多湾岸に在陣したことを明らかにする。10/3に合浦を出帆、その日のうちに対馬に到達。日本本土には、20日に進出、上陸。現在の福岡城の場所にあたる大宰府警固所が、日本の重要拠点であり、元軍の奪取目標であったこと。冬には日韓の交通が難しくなることから、当初からの想定のうち奪取失敗時には、早めに撤退することは決められており、その予定に従い、27日ごろに撤退したのではないかとする。乗り降りの手間や風力・人力の船のかぎられた移動力を考えると、一日では無理ではないかという指摘は、言われてみれば確かにとしか言いようがないな。文永の役の元側の大型軍艦が100隻強で、兵力は1万数千人規模だったのではないかという指摘も興味深い。バアトル軽疾舟や汲水小舟は、戦艦に搭載された上陸用の船だったと著者は考えている。ただ、世界史的に見れば、小さな船でかなりの距離を航海している事例はいくらでもあるわけで、同時代の中国の水軍の編成などを参照して、考える必要があるのではないだろうか。
 第四章から第七章は、「蒙古襲来絵詞」の検証と竹崎季長の出自の検証。奥書が後世に付け足された偽文書であること。絵詞の発注者である季長の作成意図にそって読むことが、一番絵詞を的確に解釈できること。絵詞は自分の活躍を強調する意図の作品であり、それに沿って解釈するべきであるし、たとえば三井一門との関係などは歪曲されているという。あるいは、菊地一門や島津一門など、あるいは武具の装飾などについては比較的正確に描かれている一方、水手などに関して、絵的な見栄えを重視しての脚色が存在する。季長が、独立の御家人肥後国の守護であった安達氏の被官の境界線に近い立場で、状況によって使い分けていた状況。
 また、竹崎季長の出自の問題も興味深い。通説では、竹崎季長の出身地は下益城郡の竹崎とされている。しかし、菊池川河口、伊倉の近くの竹崎の出自であり、菊池川流域に力を持っていた菊池氏の一流、江田氏の関係者であった可能性が高いという。菊池川流域から熊本市北部の地名を名乗る人々と行動を共にしていることを考えると、確かに、そう考えるほうが自然とは言えるが、今後、どう議論が深まっていくだろうか。
 第八章は、弘安の役の検証。ここは、文永の役に比べると、筆が鈍い感じが。蒙古襲来絵詞に言及されていないように、現地で戦っていた日本側の武士にとって、「神風」という認識がなかったこと。台風が来た際も、江南軍は鷹島に、東路軍は志賀島に分かれて戦闘を続けていて、鷹島の江南軍は大きな被害を受けたが、東路軍は比較的損害が小さく志賀島で頑張っていたあたりの主張は、受け入れていいように思う。ただ、台風のあと、范文虎が使える部隊を引き連れて、速攻で撤退していることを考えると、当初から江南軍の戦闘力は限られたものだったのではなかろうか。数万規模の兵力が頑張っていれば、そう簡単に撃滅されないし、パニック状態には陥らないと思うのだが。最終的に、鷹島で捕虜になった人数が数千人だとすると、江南軍って規模が相当小さかったのでは。あと、東路軍も最終的に撤退しているということは、日本側がかなり優位に戦争を進めていたと言えそうだが。


 図書館から借り出した本だが、予約が入っていて慌てて手につける。かつ、途中で予約が消えるという攻撃を食らってしまった。おかげで、いろいろとスケジュールが狂った。ページ数も、500ページ超で、なかなか読むのに時間がかかった。ページ数に見合うだけの、興味深い本ではあった。


 以下、メモ:

 蒙古襲来はなぜ起きたのか、つまりモンゴル(蒙古、元)は二度も日本を攻めてきたのだろうか。何の利害関係のない国に攻め込むはずがない。理由は日本がモンゴル・元の友好国ではなく、敵対国だったからだ。文永当時モンゴルにとって、最大の敵は宋(南宋)であった。日本は宋の友好国だった。日本は宋が必要とする物資を輸出していた。米もある。宝治元年(一二四七)十一月、朝廷は西国売米の渡唐を禁じる程だった(『歴代編年集成』『大日本史料』同年十一月二十四日条、『国史大系』帝王編年記に同じ)。だが最も重要な輸出品は材木と硫黄であった。南宋宝祐六年(一二五八)明州長官兼沿海制置使・吾潜奉状に、日本との貿易品で宋の財政に有益なのは材木と硫黄だけで、それは日本の国主・貴臣のものだとされている。p.23

 米を輸出して、商売になったんだ。

 また◇3からは三〇〇艘の梢工、水手が一万八〇〇〇人とあるので、一艘に水手(水夫)は六〇人必要なことがわかる。◇2では梢工・引海・水主六七〇〇だから、船員が船頭も含めて六〇人なら、一一二艘になる。この数は一二六艘分の水主を集められず、乗せられなかったという◇3の記述にまさしく一致する。高麗からの船は一一二艘である。高麗は命令された一二六艘分の水主を出すことができず、一一二艘の船になった。よって実際は三〇〇艘よりもはるかに少なかった。三〇〇艘は、実際の船の数ではなかった。九〇〇艘は大船団を表す一種の慣用・常套表現ではないかとさえ思ってしまう。ここでは、外向き・表向きの公称数字であった。p.130

 まあ、300+300+300の900艘ってのは、整いすぎていて疑わしいのは確か。

 蒙古軍は潮に乗って深夜亥刻(夜十時)に攻めてきた。これは先鋒隊で、後続も含め、複数地点・多地点からの同時上陸を蒙古側はねらう。石築地(元寇防塁)は文永当時にはなく、弘安の役に大きな役割を果たした。のちに石築地が築かれた場所が、すなわち文永に蒙古軍が上陸した可能性を持つ地点である。p.149

 夜なら、複数地点上陸はありなのかね。あんまり分散しすぎると、今度は各個撃破の対象になりかねないと思うのだが。石築地の構築地点が、元軍の上陸地点ってのは、おもしろい見方。

 鎌倉幕府は臨戦体制を継続する。弘安の役後も軍備の整備を推進した。まず狼煙による肥前筑前の通信網整備に余念がなく(永仁二年〈一二九四〉来島文書)、鎌倉幕府が滅びてからも「異賊防禦構」の整備は継続される(貞和二年〈一三四六〉入来院文書・『室町幕府追加』)。前面に溜まる砂の排除を続け、長門でも長期に石築地が維持されたようだ(康永二年〈一三四三〉出雲千家文書に「一 長門石築地請取」)。室町幕府・足利氏も初期には臨戦体制を継続した。p.453

 軍事指揮権の維持に有効だったってことなのかね。60年間、リソースを突っ込み続けたのか。南北朝の混乱状態でもかな。