中国新聞取材班編『猪変』

猪変

猪変

 読書ノート作成が遅れて、これ、もう読み終わってから10日くらいたっている気がする。ともかく、これで、県立図書館から借りた本はぜんぶ終わった。
 2002年に中国新聞で連載された記事を、本にまとめたもの。新聞かなにかで書評を見て、読みたいと思っていた。県立図書館に入ったので、さっそく借り出し。
 猪の人里への進出とそれに伴なう農業被害の急増。それが人間社会の動向と表裏一体であること。山村の人口減少や島嶼部での柑橘類栽培面積の減少が、猪の生活空間を創出している。1970年代の航空写真を見ると、瀬戸内海の島々は徹底的に開拓されているんだよな。それが、オレンジ輸入の自由化などで、栽培面積が減少。森に帰る場所が生まれる。そこに、外部から入り込んだ猪が住み着く。
 また、単純に捕殺すればいいとおもっていたが、単純に捕殺を増やしても解決しないという指摘が興味深い。農業被害の軽減のためには、農作物の味を覚えた個体の排除が必要だが、そういう場所は、人を誤射する、子供がわなにかかるなど、狩猟がやりにくいこと。結果、奥山の個体が大量に捕獲される一方で、農業被害は一向に減らないという状況が生まれるという。なかなか難しい話だな。
 猪の森や藪への適応ぶりを見ると、人間って動物は、つくづく草原や疎林に適応した生き物なんだなと感じる。じつは、密林は苦手な環境なんだな。


 本書は、第一章が島嶼部のルポ、第二章が山村のルポ、第三章では欧州の事情を取材、第四章が猪と人間の付き合いの歴史、第五章が食肉としての利用の模索、第六章が天敵としての役割を人間が自分でやらなくてはならなくなった状況を紹介する。終章は、2002年の取材後の展開。いろいろと知見が修正されている。
 島嶼部に広がった猪が、飼育されていたイノブタが逃げ出して増えたのではないかという話。猟で追われて海中に逃げ込んだ。柑橘類の輸入自由化で、島嶼部のみかん畑が減少。森に戻った耕地が、猪の格好の隠れ場所になった、人間側の社会の変化が影響していることなど。
 第二章は山村の状況。猪に耕地が攻撃され、農業を諦めて去っていく人々。それで、荒地が増えると、そこを拠点に他の農地を攻撃する。自治体の境目が対策の境目になってしまうというのも問題だな。牛を放牧すると、猪が寄ってこなくなるってのも興味深い。自衛手段としては罠が有効と。
 第三章は欧州の猪事情。ポーランドやフランスの状況をレポート。猪のモニタリングにリソースを投入している点や肉の利用体制が整っているのは、参考にすべきことだが、他の事ではあまり参考になりそうにないな。なんだかんだ言って、ヨーロッパの森はゆるやかで、動きやすい感じが。フランスの事例は、森を柵で囲い込んでしまえるんだから、深さが全然違う。特に、「狩猟」の社会的位置付けが全然違うのがな。ヨーロッパでは、伝統的に狩猟は貴族のスポーツで、庶民が猟場で狩りをするのは禁じられていた。そのような伝統があってこそ、狩猟が「社交の場」たりえている。一方で、日本では、狩猟は、生業ないし害獣駆除であった。それが彼我の狩猟の姿の違いを生んでいる。その違いが大きすぎて、ヨーロッパの事例を参照するのは、難しいのではないだろうか。やぐらの上に小屋を作って待ち伏せる、ハイシート猟は、日本でもそれなりに有効そうだけど。適地は限られるかな。
 第四章は猪と人間がどのように付き合ってきたのか。猪に対する親しみや神事の対象になっていること。古代には、猪が「死者の世界」からやってくるものとして恐れられていたこと。弥生時代の遺跡から、猪の骨が儀礼に利用されたとおぼしき状況で出土することなどが紹介される。
 第五章は、駆除した猪を食べる試み。猪をおいしく食べるためには、できるだけ早く、血や内臓を抜いて、冷やさなくてはならない。とすると、交通に便利なところじゃないと難しいような。さらに、食肉として流通させるには、食肉処理業の許可を得た解体処理施設で解体を行なう必要があること。公衆衛生的な検査体制などが整っていない状況などが紹介される。これでは、なかなかジビエ利用は広まらないよなあ。インフラ整備の必要性がある。あと、ぼたん鍋が名物の、兵庫の篠山市が、猪肉の流通拠点となっていること。あるいは、カナダから飼育された猪肉が輸入されて、むしろそちらの方が安く料理を出せると。しかし、ぼたん鍋って、一人前5000円以上か…
 第六章は、猪との距離感の問題。神戸では、人になれきってしまっている状況。しかし、それはあまり幸福な状況ではないと。また、猪から耕地を防衛するには、地域での協力体制が重要。本当に守りたい耕地を、地域で整理して、ほかは見捨てるといった、危機管理が必要と。また、自分たちの土地を守りたければ、自分たちで狩猟免許を取得して、自分たちで対抗する必要があると。ハンターの利害と集落の利害は重ならない。自分より大きな牛が放牧されていると、猪が近づかない。そこで、草刈りと猪排除をかねた牛放牧の試みが、島根県六日市町で試みられている。この延長線上で、狼の再導入の試みも紹介される。
 終章は、その後の話。やはり、猪がどういう動物で、どう行動しているのかを明らかにして、対応策を考える必要があると。バイオロギングなんかの技術を導入する必要はあるだろうな。人間は、視界が聞かない場所の生き物を追うのは苦手。あと、捕獲数は伸びているのに、農業被害の額は減っていないというのが。人間の生産空間の近くに住み着いている個体を排除しなければ、結局、被害は収まらないと。道路ののり面が餌場か。ぶっちゃけ、ガンガン狩れば解決すると思っていたが、そんな単純な話ではないんだな。


 以下、メモ:

 一九六六(昭和四十一)年に芸予諸島の一つで広島県の最南端、呉市沖の倉橋島を撮った航空写真。山肌はてっぺんまで開墾され、パッチワークのようにすき間なく、段々畑が張りついている。涼を取れる木陰がちらほら見えるくらいで、森と呼べる茂みは見当たらない。つまり、イノシシの隠れがなど無いも同然なのである。
 ちなみに同時代の一九六〇年に映画監督新藤兼人さん(一九一二‐二〇一二)が撮った出世作「裸の島」でも冒頭、広島県三原市沖の開墾し尽した島々の空撮シーンが続く。
 それが、どうだろう。ミカン色に色づいていた瀬戸内の段々畑は、一九九一年のオレンジ輸入自由化で打撃を受けた。高齢化の波にも洗われる。傾斜のきついミカン園から見放され、次第に山へと戻っていく。廃園後も実はなり続け、イノシシにとっては餌付きの、またとないすみかとなった。
 イノシシが押し寄せてきたのではなく、むしろ、人間の側がおびき寄せたようなものではなかったか――。p.9

 人間が開けたニッチが、そうとう居心地が良かったと。やはり、放棄した後は、果樹はきっちり切り倒しておく必要があると。

 山の暮らしは1960年ごろから、変わり始めた。幾筋も立ち上っていた炭窯の煙が消えた。「石油や電気がありゃあ、炭は売れん」と末信さん。今は自宅のこたつを温める分だけ、細々と焼いている。
 裏山に、炭焼きが盛んなころの名残があった。炭材だったコナラやカシの木はどれも、根元から何本もの幹が伸びている。切り株から芽生え、伸びた枝を数年後に切る繰り返し。根こそぎ切らず、森を生かし続けた証しだ。林業が寂れ、山から人影が消えた今は、イノシシのおなかを満たすごちそう、ドングリの森だ。p.53-4

 うーむ、炭焼き衰退後の森も、イノシシの餌場か。ツキノワグマも来そうな。こういうの、里山整備かなにかの名目で補助金つけて、パルプ用のチップとかに売れないかな。

 イノシシは家畜ではない。だから、一九五三年にできた「と畜場法」で食肉解体場には持ち込めない。解体し、市販するには、食品衛生法に定める食肉処理や食肉販売の許可を受けなければならない。
 例外はある。猟や駆除の獲物を親戚や近所に配る、おすそ分けは問題ない。たとえ肉から細菌や寄生虫がうつっても、それは「自己責任」という考え方である。
「日本に来たヨーロッパの研究者たちは皆、目を丸くするんですよ。日本では検査もせずにイノシシやシカを食うのか、って」。猪肉の国内流通を調べた東京農工大の神崎伸夫助教授からすると、野生鳥獣の肉は、公的な衛生管理体制からこぼれ落ちているように見える。p.141

 このあたり、怠慢だよなあ。

 コシヒカリの流行が、イノシシを里に引き寄せた一因という、意外な説がある。
 米どころの島根県仁多町、岩田一郎町長(77)もこの仮説にうなずく一人。「昔は十月一日が収穫祭のピークだった。早稲のコシヒカリが流行して、近ごろは刈り入れが八月下旬だよ。ドングリが落ちる前に稲が実るから、イノシシが山から下りてくる」p.184

 これも、人間側の要因が、イノシシを引き寄せているのか。

 実際、現場をよく知る人からは「数を捕れば片付くという問題ではない」との声が聞こえる。農作物の味を覚え、里山に居着いたイノシシこそが狙う相手との指摘である。奥山にいて、里には寄りついてもいない個体をいくら捕っても被害は減りはしない。捕獲の総数ではなく、問題個体の見極めが鍵だという認識こそ広く共有するべきだろう。p.214

 これ重要。