兼平賢治『馬と人の江戸時代』

馬と人の江戸時代 (歴史文化ライブラリー)

馬と人の江戸時代 (歴史文化ライブラリー)

 幕藩体制社会全体への、良馬の供給地としての責任を負わされた南部藩で、馬と人間がどのような関係を取り結んだかを検証した本。基本的史料は、同藩の家老席日記である「雑書」で、紹介されるエピソードはここから採られたものが多い。
 最初は、支配階層である武士にとっての馬。騎乗戦士身分たる武士は、良馬を確保し、それを乗りこなす必要があった。このため、天下人も含め、馬の確保には腐心した。江戸幕府は、毎年盛岡・仙台・秋田の三藩に「御馬買衆」を派遣し、購入していた。彼らは、同時に東北方面の情勢を確認する役割を果たしていた。また、諸大名も、「脇馬買」と称して、使者を派遣し、馬を購入していた。奥州の馬は、体格が大きく、同時に性格が穏やかで人によく馴れるというところが評価されたという。
 このような幕府の馬購入は、綱吉・吉宗の時代に変化を見る。綱吉時代には、盛岡藩が選んで江戸に送った馬から、幕府が選ぶ方式に。さらに、盛岡・仙台両藩の馬喰が江戸に引いていく「馬喰馬」という方式に変わっていく。また、両者の治世の特色が、馬に色濃く反映されているという指摘も興味深い。綱吉の「徳治」の始まりを知らせるものとして、筋を伸ばしたりした「拵え馬」の禁止が最初に行なわれた。吉宗の「武威」の政治に関しても、野性味のある馬を求める、関東での牧の再興など、馬をめぐる具体的政策が、武威の称揚という目的に関して、行なわれている。吉宗の鷹狩り好みや鷹場の設定を通じて個別領主の枠をこえた支配の推進など、鷹を通じた政策は『鷹と将軍』という本で紹介されているが、それと同様のことを馬でもやったと。


 武士にとっての馬、民間での馬も興味深い。盛岡藩は、幕藩体制の中で良馬の産地としての責任を負い、それだけに負担も大きかった。同時に、血統の管理や良馬の流出を防ぐため、統制が行なわれていた。藩全体として、馬への関心が高く、農家の火災の被害報告時に、馬の被害も書きとどめられる。結果として、馬の飼育の階層差などが明らかになる。
 盛岡藩士は、「役馬」として、良質な馬を優先的に購入した。しかし、泰平の時代には、軍用馬である武士の馬は存在意義を低下させ、飼育の義務が100石以上から300石以上と、馬と縁遠くなる。馬術の技量が低下した結果、乗馬を避けたいという風も現れる。19世紀に入り、対外的な軍事的緊張が強まると、武芸が再び重要になり、それと共に武家社会と馬の距離も縮まっていく。
 一方、民間では、武家で利用されない雌馬が、主に保有された。近世の東北では、馬耕が余り普及せず、代掻きに利用されたのみであったという。厩肥が重要であった。また、保有に関しては、9頭あまりを所持する家から、他所から馬を借りて農作業に利用する家まで、さまざまな状況があったと。


 続いては、人間や自然環境との関わり。
 馬喰による馬の流通ネットワーク、馬の健康維持への関心、神事を行う際に公儀の馬によって権威を得ようとする寺社。馬が巻き込まれる事故。蝦夷地と馬の関係も興味深いな。松前藩が、参勤交代の際に、盛岡藩から馬を贈られていたこと。一方、北海道まで馬を持ち帰ると、もてあましてしまう状況。ロシアとの軍事的緊張の増加にともなって、蝦夷地でも馬が増えた。
 馬を飼育する牧の維持が地元の負担になっていた状況や、狼が牧の馬に対する脅威になっていた状況。あるいは、狼が減れば、イノシシや鹿が増えて田畑を荒らすようになるシーソーゲームも興味深い。
 度々襲う飢饉が、馬の育成にも大きな影響を与えたこと。生き残るため、馬肉食が徐々に拡大するが、馬肉食に対する忌避感は根強いものがあったこと。しかし、いったん、食べるということが行なわれると、続発する飢饉の中で、馬を食糧として見る認識が拡がっていく。


 最後は、老いた馬の余生の姿から死んだあと。
 藩主のお気に入りの馬などは、人間以上に手厚く介護され、余生を過ごすこともあった。また、良馬は種馬として牧で飼われるなどの余生があった。一方で、庶民の馬は、飢饉の際に食べられるなど、命をまっとうするのも難しかった。一方で、馬に対する親近感は強く、馬頭観音など馬を供養するものは多く残る。
 東北では、死んだ馬の皮の利用はあまり盛んではなかった。馬の皮は、皮革の原料としては、あまり上質のものではなかったという。しかし、19世紀に入り、軍事的緊張の高まりと共に、皮革の需要も増加し、馬皮の利用も拡大するようになる。しかし、近世中は、原皮の供給にとどまり、それを自ら加工利用する能力は身につかなかった。また、斃牛馬の皮を利用するための手続きは、庶民の負担になっていたことが指摘される。
 馬の尾の毛を集めて利用していた話も興味深い。


 最後はまとめと展望。馬と人間の共生。東北の馬事文化が根強く、戦争中に馬関係の祭事は禁じられたが、戦後に速やかに復活している。また、馬肉に関しても、近世に馬産地だった場所では、馬肉食を避けている場所もあるという。
 明治以後、洋馬による馬格の改善が求められたため、良馬の産地であった東北では、南部馬の純血種が早い段階で消滅する等、大きな影響を受けた。軍馬として適格な大型の馬は購入費や飼育費などがかさむため、小規模な農家からは敬遠され、小型馬が求められたという話も興味深い。

 この生類憐れみの令の初発を何に求めるかは、諸説あって一致した見解はみられない。ただ、生類憐みの令の初発の法令を重視して探していると、重要な視点を見逃す恐れがある。それは、政策が展開される素地が、綱吉政権以前にすでに準備されていたという点である。
 人を殺すこと、人が死ぬことを厭う政治が、家綱政権のめざした「御救い」の政治であり、これをいびつに発展させたところに、人間の死のみならず生類すべての死や死の穢れを厭う綱吉の生類憐み政策が展開した、という福田千鶴氏の指摘に注目したい(福田千鶴酒井忠清吉川弘文館、2000)。家綱政権期には、仁政の実現をめざし、慈悲の政治を積極的に展開した池田光政のような大名も現れはじめていた。p.47

 最近、綱吉を評価する議論が目立つようになりつつあるけど、「徳治」がすでに前政権で準備されていたとなると、やはり、綱吉の評価は下がるなあ。行き過ぎて、人民に迷惑をかけたとなると、暴君扱いはしかたなくないか。