サイモン・ウィンチェスター『クラカトアの大噴火:世界の歴史を動かした火山』

クラカトアの大噴火

クラカトアの大噴火

 インドネシアのジャワ島とスマトラ島の間の海峡で噴火を起こし、甚大な被害を与えた1883年のクラカトア(クラカタウ)の噴火を描いた本。450ページ越えの分厚い本で、以前、一度断念していた。今回、図書館から借りた本が一通り片付いたので挑戦。噴火そのものを扱うより、噴火に対して人間社会がどのように反応したかを重視して描いている。規模そのものは、1815年のタンボラ山の噴火の方が大きいが、主要地域に海底ケーブルが敷設され通信の速度が上がったこと、全世界を視野に置いた科学的研究の発展といった時代背景が、クラカトアの噴火を独特のものにしている。
 インドネシアへのオランダ人の進出と支配、火山活動を科学的に理解する基礎としてのプレートテクトニクスの発見の動き、クラカトア火山の噴火の履歴、噴火の展開とそれに対する人間の対応、そしてその後の社会的混乱と新たなクラカトア火山の活動。正直、第一章のオランダのインドネシア進出の話はなくてもよかったような気がする。一方で、著者自身も少し関わった、古地磁気学によるプレートテクトニクスの証明の話も興味深い。あるいは、噴火後の原理主義的なイスラム信仰の拡散とオランダの支配に対する反乱。そこから植民地支配に抵抗する民族主義の形成。


 クラカトア火山の活動の活発さが印象的。
 6万年以前前には、古クラカトアと呼ばれる成層火山が存在。しかし、噴火で崩壊し、海中に没したカルデラと、三つの島を残した。カルデラ内部では、新たな火山活動でラカタ、ダナン、ペルブタワンの三つの火山島を形成した。これらの火山が、1883年の噴火の主役となる。その後、535年頃に噴火した可能性と、1680年の記録に残る噴火。ジャワ島とスマトラ島の間の海峡は、地質活動によって拡大しつつあり、多数の断層が存在する。それが、この地に活発な火山活動を引き起こしているという。
 クラカトアは1883年の5月に活発な火山活動を再開し、8月末に一晩で四度の大爆発を起こし、消滅した。この際には、数千キロの範囲で爆発音が聞かれたという。また、スマトラ島方面に火砕流を発生させ、千人規模の犠牲者を出し、島を崩壊させた爆発によって巨大な津波を発生させ、3万人以上の犠牲者を出した。また、津波は拡大してヨーロッパあたりでも観測されたという。巨大な爆発には、海水も影響しているのかな。とりあえず、島嶼の噴火では、山体崩壊による津波が恐ろしい。
 その後も火山発動は継続し、新たな島ができては消えていった。1930年の噴火によって、安定した、アナック・クラカトア(子クラカトア)と呼ばれる新たな火山島が出現している。100年かそこらで、400メートル程度堆積するって、本当に火山活動が盛んなんだな。


 クラカトアの1883年噴火が興味深いのは、その後の徹底的な調査の存在だろう。本書でも詳しく紹介されているが、気圧計のデータを世界中から収集し、爆発の衝撃波が地球を七周したこと。津波が世界中に拡散したこと。爆発音が数千キロの範囲で聞かれたこと。世界規模で情報が収集されている。
 また、クラカトアが舞い上げた火山灰は、成層圏を浮遊し、地球の気温を下げると同時に、夕焼けを異様な色に変えた。クラカトアの調査は、その太陽の異常に関する証言を集めている。そんな主観に左右される情報を集めて何の役に立つのかと思ったが、この証言が、成層圏の大気の動きを研究する端緒になったというから、どんな精度の低い情報でも、きっちりと収集分析すれば役に立つのだな。


 焼き尽くされたクラカトア島周辺の島々に、生物が復活する過程も興味深い。初期の観察がお粗末だったため、どのような初発条件であったかは不明確だが、最初は撹乱地に進出する生物から始まって、現在は密林が形成されている。一方で、クラカトア火山関係の島々は、周辺の島々の生物相の一部が漂着して形成されているため、周囲の生物相からはかなり種類が欠けているらしい。本書では、ダーウィンと並んで進化論を早い時期に論文化したアルフレッド・ラッセル・ウォーレスの事跡とインドネシアの生物相の境界線となるウォーレス線が紹介されている。ウォーレス線に見られる、島嶼地域に広い範囲の共通の生物相は、、比較的近い過去に、両者が陸地でつながっていたことを証明する物証ということだな。


 以下、メモ:

 しかし、いくらもしないうちにオランダ本国の株主たちは、東洋に配置した船の少なくとも一部を使って東洋の中で交易を行なえば、大幅な増収につながりうることに気づいた。ジャワからオランダに品物を運ぶだけでなく、たとえばジャワ島からスマトラ島へ、あるいはセイロン島のガールからセレベス島のマカッサルへも運べばよいのだ。現地の人びとは、こうした交易の可能性を十分に追求していないのだから、船をもち、航海の知識も技術も充実し、自信も強まるばかりのオランダが、自ら交易に乗り出して悪かろうはずがない。こうして、「地域間貿易」と呼ばれる慣行が始まった。遠国オランダからはるばるやって来た船長たちの船が、東インド諸島(現在、一万七〇〇〇以上の島があることが知られている)の途方もなく長い海岸線沿いに行き来して、商人から商人へと荷を運び、自らの品物も少なからぬ量を携えて回り、それを売って大金持ちになる者もいた。p.43

 ここらあたり、21世紀に出た本とは思えない認識だな。情報源はなんだろうか。17世紀あたりの時点だと、むしろ華僑やイスラム商人、インドネシアの海洋民のネットワークが物資の流通の大半を担っていたのは常識だと思うのだが。

 クレオソート処理しタールを塗った電柱を伝って、通信ケーブルはボンベイへ、その後交換センターへ着き、金属被覆のケーブルに姿を変えてアラビア海をくぐりカラチに至る。そして再び陸上の電柱に張られた線に上り、バルチスタンの村
ヘルマク、ペルシアのケルマーンテヘラン、タブリースを通り、グルジアのティフリスから黒海沿岸のスフミへ行く。そして崖道に沿って進み、クリミアのケルチとオデッサを通って、大草原や炭鉱地帯を横切り、ポーランドの都市ペルディチェフ(ヒトラー登場前の当時は人口五万二〇〇〇人で、その多くはユダヤ人だった)へ、それからワルシャワ、ベルリンを通って北海の港エムデンから最後にもう一度海へ潜って、イーストアングリアで上陸し、そこから残る八〇キロメートルを電柱伝いに進んでロンドンに到達する。この経路で送られた電報が目的地にたどり着くまでに一週間かかることもあった。p.217

 冷戦後の世界では、ものすごく危険度の高いルートだなあ。しかし、電報の到達まで一週間か。当時としては早かったんだろうけど…

 火山の噴出物ののうちでいちばん悲劇的な役割を担ったのは、いちばん速度の遅いものでもあった。耳に聞こえる音も聞こえない衝撃波も時速一一〇〇キロメートル以上の速さで飛び去ったし、粉塵も一一〇キロメートル以上の速さで世界中に散らばったようだ。一方、軽石は、クラカトア周辺の海に着水して莫大な数の浮遊物となって漂い、遠くはアフリカ東南の海岸にまで運ばれていった。しかしその速度は、時速にしてせいぜい八〇〇メートル程度で、やっと陸地にたどり着くまでに一年以上かかった。
 そして、ようやく漂着して海岸に打ち上げられたときには、軽石に載って人骨が運ばれてきているのが発見されるという恐ろしいケースがあった。犠牲になった何千何万もの不運なジャワ島やスマトラ島の地元民、オランダ人、中国人の、誰のものとも知れぬ遺骨が、軽石といっしょに海の旅をしてきたのだった。p.330-1

 ひえー
 軽石で死体が沈まなかったのか…

 手紙の大半はほかならぬアラビア半島から、使者の手によって届けられたようだ。当時アラビア半島全域はオスマントルコ支配下にあったが、正統派イスラム教の根源であることに変わりはなかった。イスラム原理主義は、ハドラマウトというアラビア半島南部(現材のイエメン東部)の、とくに信仰の篤い砂漠地帯で普及していた。p.375

 ワッハーブ派って、19世紀末の時点で、国際的テロリズムを誘発していたのか。19世紀のグローバル化恐るべし。これが、1888年にサネージャ村のオランダ人虐殺事件を引き起こしたと。


 文献メモ:
ヒュー・バーティ・キング『地球を取り巻く帯:ケーブル・アンド・ワイヤレス社ならびに同社の前身の物語』国際電信電話
ミッチェル・ステファンス『ドラムから衛星まで:ニュースの歴史』心交社