川端裕人『「研究室」に行ってみた。』

 ナショナル・ジオグラフィックのサイトに連載されているインタビュー記事から、六編を選んで収録したもの。「バッタ博士」前野ウルド浩太郎、宇宙開発のベンチャーを渡り歩く高橋有希、生物の動きを取り入れたロボット開発の飯田史也、理研で超重元素の合成に成功した森田浩介大林組で宇宙エレベータの研究を行なっている石川洋二、サンゴ礁や熱帯の土の形成など自然地理学の研究を行なってきた堀信行の六氏。
 森田氏以外の人が、積極的に海外に打って出ているのが印象的。そのくらいのパワーがないと、国際的活躍は無理ってことだよなあ。一方で超重元素の森田氏は、確率勝負の合成実験を17年も続けるという。これはこれで、ものすごい粘り強さ。
 それぞれの研究の内容もおもしろいな。
 サバクトビバッタの研究。日本国内では厳重に管理された状態で実験が行われること。フィールドに出てみると、一定に保たれた環境とは違う姿が見えてくる。フィールドで感じた疑問を、即座に実験に落とし込む、研究の組み立ての力が印象的。あと、フィールドに出てくる専門研究者がいないって状況が深刻だな。先進国からフィールドにやってくる研究者がいない、現地の人は学位を取ると管理職になって現場に出てこない。バッタ防除だけではなく、いろんな分野で同じような問題がありそう。
 第二章は、宇宙開発の現場を飛び回る人。電波望遠鏡から、電子部品の電波や宇宙線からの保護へ。南極で宇宙背景放射の観測活動から始まって、スペースX社へ。さらに、退職して、新たなベンチャーへ。ぐいぐいと動いていくパワーが印象的。積極的にイベントに出て、人脈を掴んでいくってのは、アメリカンなスタイルだな。こういうエネルギーをガンガン取り入れていくのが、アメリカのパワーの源というか。
 第三章の飯田氏は、ロボット研究の盛んな日本を敢て避けて、ヨーロッパで生物の動きを取り入れたロボットの研究を行なっている人。歩行なんかも含めて、「反射」の重要性。中央で大きな脳がすべてを制御するスタイルとは違う、分散的な処理で動くロボットか。こういうのを突き詰めていくと、「パトレイバー」のイングラムのような、オートバランサーとか、それに制御を任せての柔道技なんてこともできるようになるのかね。昆虫なんかは、体の仕組みを工夫して、脳での計算処理を減らす方向になっているそうな。自分で体を作り上げていくロボットか。おもしろいけど、SF的には、勝手にグレードアップして、人間を襲うメカの未来がいきなり頭に浮かぶな。
 第四章は超重元素の合成の話。重い原子は、崩壊しやすい。ちょうど良い速さでぶつけないといけないそうだ。そうやって、113番元素が合成されたという話。あっという間に崩壊して、その痕跡でできたかできていないかを知ることになるようだが。物理学はよく分からない。
 続いては、大林組での軌道エレベータの概念研究の話。総重量100トン、ペイロード70トンの車両を移動させるためには、長さ10万キロ、重さ7000トンのカーボンナノチューブのケーブルが必要。そのケーブルは最大幅が4.8センチ、厚さが1.38ミリって、ものすごく細いんだな。軌道エレベータのビジュアルって、塔が空の彼方まで続いている感じだけど、この構想だと、ちょっと離れたら見えなさそうだな。しかも、カーボンナノチューブは引っ張り力には強いけど、鋏で切れてしまう。テロにものすごく弱いと。つーか、嵐が来て、板かなんかが飛んできたら、あっさり切れるんじゃね。最初は、20トンのパイロットケーブルを打ち上げて、徐々に厚くしていくのか。静止軌道のステーションもおもしろいな。
 ラストは地理学。最近は、「地理学科」ってほとんどないのか。「改革」でよく分からない名前の学科に再編されまくっているからな。本書で紹介される堀氏は、自然地理学畑の人のようだ。サンゴの分布や厚みから、氷河期・間氷期の海水準変動の影響とサンゴ礁の分類を作り上げた人だそうな。アフリカのラテライトという土の成因と環境の変動。あるいは、人から見た自然など。この人の本は探してみよう。『環境の人類誌』『水の原風景:自然と心をつなぐもの』『熱い自然:サンゴ礁の環境史』『熱い心の島:サンゴ礁の風土誌』『風景の世界』ね。


 以下、メモ:

 飯田さんは、ロボットについてのアプローチにしても、人間についての理解にしても、「脳」の役割を大きく見すぎているのではないかと感じているようだ。
 「脳が先か、体が先かみたいな話になったとき、生物をよくよく見ていくと、脳がものすごい大きな機能を果たしているというよりも、やっぱり体がよくできていてこそなんですよ。体に頭がついていく、みたいな形になっているんですね」と。
 脳と身体のどちらが重要かという話を突き詰めると、我々が意思決定しているのは脳なのか身体なのか、といった哲学的な要素もはらんだ問題につながっていく。それはそれで非常にスリリングである。p.111

 まあ、人間の場合、脳みそが大きくなりすぎたのが幸か不幸かって感じではあるな。生物としてみれば、脳が異様にでかい生き物って感じだし。

 生物の体で、動く部分はたくさんある。そこでなぜ、足、歩行、なのか。
「おもしろいのは、脳から離れれば離れるほど、動きに関する脳の関与が少なくなってくるんです。例えば、目はもうほとんど脳の一部で、脳が完全にコントロールして動かしています。手も随分脳が関与している。でも、足は目や手に比べて、動きが鈍くなってきますよね。それは、脳があんまりコントロールできないからなんですね、つまり、人間の歩行っていうのは、結構反射の塊でできていて、脳があんまり指令を出さず、実は脊髄で条件反射的にコントロールしているんです」
 ただ、条件反射がすべてかというと、当然かもしれないが、決してそうではない。
 人間はさまざまな歩き方ができる、というのがポイントのようだ。
「歩行が何でおもしろいかっていうと、この問題だけでも、人工知能的な話が全部詰まっているんです。幅広すぎてつかみどころがないくらいです。我々の歩行メカニズム、我々の歩き方には、ものすごくいろんなやり方があって、例えばアシモみたいに1歩ごとに計算して歩こうと思ったら、あれもできるわけです。ものすごく頭を使って計算して、注意深く歩くというのも、我々の歩行のひとつです」
 例えば、ガラスの破片が散らばった床を裸足で歩かなければならない時、我々は次にどこに足をつけるか、いやそれどころか次の次まで考えつつ、慎重に慎重を期して歩く。雪道になれない人が、いきなり雪国に放りだされたときなどもそうかもしれない。p.118-9

 歩行メカニズムのおもしろさ。へえ。かなりの部分が反射で処理されていると。

 ここで話題にあがったサバンナについて、人が果たした役割の大きさも分かってきた。
 「ケニアで見たサバンナは美しいんですね。草原に時々アカシアの木などがシュッシュッと立っている。ところが、カメルーンに行ったら、草も木もあるんですが、美しくないんですよ。これは何故なのかなと思って、雨量分布図と重ねてみると、熱帯雨林でもおかしくない雨量があるんですね。実は、人間が火を入れたりなんかして、熱帯雨林を人為的にサバンナのような景観にしてしまったんだということがだんだんと分かってきたんですね」
 堀さんは、カメルーンの牧畜民の草の食べさせ方を観察した。
 「起伏に富んだ土地の尾根から食べさせ、だんだん谷底へ向かっていく。つまり、草がいつまでも残るのは谷底のほうなんです。乾季に近づくにしたがって、谷底へ近づいて、自分の飼っている牛の数量と草の量があえば、それ以上彼らは要求しない。でも、足りないとなると、熱帯雨林のほうへ入っていって、道路沿いの草木にパッと火をつけたり、自分の放牧地に火入れをし、その火が雨林の緑の木々を燃やすこともある。そうやってじわじわ、じわじわと、自分たちの牧畜に都合のいい空間を増やしていくんです。もっとも、こう言いますと牧畜民の負の部分だけになりますが、農耕民側も牧畜民側に無理難題をもちかけて牧畜民を悩ましていることがあります。詳しく述べる余裕はありませんが」
 地図帳などで出ているケッペンの気候区分では同じに扱われるが、人為的につくられていくサバンナというのが、実は相当あるらしいのだ。
 「当初アフリカを調査するときには、周りの人に「アフリカの大自然を調べに行く」と言っていたんですね。アフリカこそ手つかずの自然の象徴だというつもりで。ところが、調べれば調べるほど、アフリカに手つかずの自然は本当にあるのかと思うようになりました。熱帯雨林の地下でも、人間の遺物が見つかる。サバンナでも、砂漠の近くに行っても、どんどん見つかる。ですから人間の影響のない地面はアフリカにないんじゃないかと言い切れるぐらいです」
 アフリカは、人類が生まれ、つまり一番長い間暮らしてきた大陸だ。人間の影響がない地面はないと言われても大いに納得する。
 ともあれ、サンゴ礁研究から、陸に上がった堀さんの研究は、かなり「人」の営みに近いところに到達した。p.225-7

 へえ。おもしろい。まあ、日本の草原も人為的に撹乱して維持されていたわけだけど。で、草原の資源としての価値が低下すると、草原が森林になってしまう。
 あと、牧畜民のこういう活動が、乾燥地で行なわれると、砂漠化の原因となる。

「その場所で、だれかが生き続けていること自体が、魅力的なわけですね。場所を場所たらしめてるわけです。わたしたちはそれをフィールドワークしに行くわけです。生きてる個々の人はもう、おらがため、おらが人生のために、おらが場所で生き続ける。それが地と人間の関係の学としての地理学の厚みを増していくことだと思うんです」p.232

 その場所でだれかが生き続けていること自体が、魅力的か。いい言葉だな。