講演会「織田信長研究の最前線:信長の「天下」をめぐって」

 ここ数年の信長研究の流れに棹差した議論。「天下布武」の範囲が五畿内を出るものではなかった。これは、文書を追うと、まだ中部・関西を押さえたに過ぎない時点で、「天下」「天下静謐」「天下再興」などの語が出てくることからも明らかになる。また、信長の政治構想は将軍を奉じて「天下」=近畿の政治秩序を安定させ、「諸国」=列島の他地域の戦国大名へ影響力を振るうといったものであった。三好氏などの先例にならった「保守的」なものであった。他の戦国大名とは、将軍の「御内書」に信長が添え状をつける形で交渉が行われていた。
 しかし、将軍義昭と信長は、政治的対立の末に開戦。義昭は京都から追われることになる。権威の源泉たる将軍を失うことは、信長にとっては予想外のことであった。信長から細川藤孝あての手紙から、信長が最後まで和睦の道を探っていたことが明らかにされる。
 権威を失った信長の政治理念「天下」は、内実を失い、空洞化する(講演内では「抽象化」と述べているが)。この状況下で、これから後の信長の政治は、「天下」=関西の掌握と諸国の戦国大名との関係構築という2つの課題の解決を迫られる。「一向一揆」との死闘を継続することで、常に戦争状態を維持することで求心力を維持する。また、地域外の戦国大名とは、新たな関係を構築できず、戦線は際限なく拡大して行く。浅井・朝倉・武田を滅ぼし、毛利・上杉・北条・長宗我部を圧迫していた「快進撃」が、実は展望を失ったダッチロール状態だったとすると、実に味わい深い。また、天正に入って、信長に対する反逆が相次ぐのも、展望がない状態で延々戦争が続く状況では、納得できるわな。信長は安定した制度を築けなかったのではなく、そもそも、築ける状況になかったと。
 最終的に、本能寺の変で信長が死亡することで、この状況に終止符が打たれる。だれか、新たな将軍を立てるわけではなく、自身が将軍などにならなかったと言うのは不思議な事態だが、守護代という旧来からの支配層の中級以上のレベルにあり、かつ将軍になれる筋ではなかった信長にとって、自身が将軍になる発想をもてなかったという指摘は興味深い。


 信長政権の後継者の地位を手に入れた秀吉は、関白の官職に就き、朝廷を奉じて「惣無事令」を出すことで、全国的に影響を及ぼす「理念」を手に入れる。また、この段階で九州から本州北端にいたる、現在的な意味での「天下」が使われるようになる。その意味で、真に「革命的」なのは秀吉だったと。特に革新的な展望もない人物が暴れた結果、新たな体制への筋道がつくられ、それを近くで見ていた人間が真に革命的なことをなすってのは、おもしろい構図だな。
 惣無事令によって、境目の紛争などの自力救済・戦争行為を禁止、秀吉の所領裁判によって紛争が解決される体制が創出され、歴史的に新たな段階を迎える。また、秀吉の裁判=所領の保証=領地の宛行であり、惣無事令体制を通じて、秀吉は全国の大名を主従関係の下に編成することになる。ここに、信長政権の課題であった、諸国の戦国大名との「新しい関係」の構築という課題が克服されることになる。
 このような、全国での境界紛争をさばくための情報源はなにであったか。相良家文書の深見三河入道の書状で、地域の状況を話せと述べているのが参考になる。地域が歴史的に蓄積してきた紛争解決の知恵や伝統を吸収する形で、全国政権が存立したと。


 「カリスマ的変革者」によって、一気に改革が行なわれたという歴史観は、現在では否定されたと考えていいと。実際のところ、「革命者信長」という存在には、まったく興味がなかったんだよな。むしろ、意図しない行為の結果、それ以前の社会とはまったく違うものになってしまったという流れの方が、歴史の妙味を感じる。その点で、かつてより、今の信長像はよっぽど魅力的になったように思える。