田中淳夫『森と日本人の1500年』

 ここ半世紀ほどの植生の変動から初めて、日本列島の人間と植物の関係を描いた本。著者が関西の人だけに、関西のネタの比重が高いように思う。7割程度が近代の林業政策の話だけど、近代の林業政策史って、惨憺たる失敗の歴史だよなあ。在地の慣習を無視して、これからは「ドイツ方式だあ」とか言って、外来の学問をぽんと放り込んで根付かず。最終的には、第2次世界大戦の乱伐で資源がほぼ枯渇。『森林飽和』でも、近代が一番森林破壊がひどかったなんて評されているしな。


 100年前には、今とまったく違う景観が広がっていた。それが、すっかり忘れ去られているのには、驚くしかない。明治の桜は、ぱっと散るものではなかった。鎮守の森は利用されていた。桑畑の消失。養蚕が森林資源に与えるインパクト。都市近郊の山地は、都市への燃料供給で草山や禿山だった。生駒山は数十年前まで草山だった。熊本近郊でも、立田山は、草山だったのを、公園化して、現在の植生があるんだよな。製紙業が一番森林を所有している。戦後の拡大造林で日本の森林は針葉樹ばかりになった。
 しかしまあ、桑畑なんかは、高度成長期以前には全国に広がっていて、地図記号でも専用の記号があるくらいだった。それが、あっという間に消失するんだから、グローバル経済の荒波の恐ろしさといったら。熊本でも、結構な面積があったはずなのに。


 第二章は、古代から近世の林業の歴史。古代の宮殿建設で、関西圏の森林が切りつくされた状況。戦国時代の大建築時代。近世の植林と伐採規制の試み。山国や高島の粗放的持続的林業。吉野の集約的林業。北山林業や四谷林業といった磨き丸太の供給に特化した林業など。ここで紹介される京都の北の産地の林業地は、山国にしろ、北山にしろ、都市に、木材だけではなく、薪や建築資材など幅広く林産物を供給していた。非常に「近郊」的な性格を持っていたと言えそう。そして、現在、エネルギーや素材を林産物に頼らなくなった時代に、複合生業的な山村経済をどうやって作るか。現在の山村経済の疲弊は、木材モノカルチャーと言ってもいい状況になっているのだよなあ。


 第三章は明治初頭からの、近代的林業政策の話。ドイツの林学を移入した状況。はっきり言って、在地の慣習を無視して国有林化を一気に進め、かつ、幕府が集めていたフランス林政の資料を無視して、ドイツ式を一気に導入してしまうところに、明治政権の「政権担当能力」の低さが現れている。産業革命に眩惑されたというか。
 本多静六や吉野林業が日本の林業のモデルとなった次第。あるいは、鉄道が森林にもたらした影響。枕木には大径の広葉樹が必要とされ、大量に伐採された。また、一部はアメリカへ輸出されていた。産業用のエネルギー需要も相まって、近代の一番森林が荒れた時期の要因となったのではないかと言う話。


 第四章は20世紀の変わり目から第2次世界大戦末あたりまで。ドイツにおける森林レジャー・教育の始まりや林学が生態学を導入し、多様性を重視するようになった思潮の影響を受けて、日本の林学も変化していく。森林美学や森林芸術論争。昭和初めからの天然更新施業の試みとその混乱、それが戦時体制で雲散霧消する流れ。GHQの後押しによって、林野庁の中核に技官が入るようになるが、結局現場では有効に生かされなかった。現場経験のある専門家の育成ができない、予算がついたので逆に暴走って、日本の官僚制の欠点そのものだな。
 第三章・第四章の近代林政の帰結が、終戦の時期の荒れ果てた日本の森林と。


 第五章は戦後。消えた多様な森林。自然保護思想の高まり。
 万沢林業や山武林業のような、焼畑やさまざまな林産物と組み合わせたアグロフォレストリーが存在したが、そういう技術は失われていって、人工林からさらにゴルフ場へ。森林放牧というのも興味深いな。鹿の食害やイノシシの害が問題になっているところでは、改めて注目に値する技術なのではないだろうか。牛を放つといのししがよって来ないってのは『猪変』に載っていた話だったけ。
 海外からの輸入木材の増加。日本の森林蓄積の低下や大量供給ができない状況などの要因があったと。現在は、木材の消費促進を政策的にやっているが、結局、需要に対応しきれていない。
 あとは、木を切ることを拒むタイプの自然保護運動から、森林ボランティアや森林浴、木育などの動き。日本で、あまり山でのレジャーが根付かないのは、藪化しやすいとか、スズメバチ・蚊・ブヨなんかの攻撃的な昆虫の存在なんかがありそう。ヨーロッパでは、そういう虫による怪我はどの程度あるのだろうか。
 そして、森林を作ることに、「美」を取り入れることの重要性。


 以下、メモ:

 江戸時代は、薪や炭こそ山の重要産品だった。都市部へ薪炭を供給することが、山村の最大の役割であり、現金収入の道だったのだ。そして地方の経済を支えていた。
 例を挙げると、当時から大都市だった大坂は、人口が多く銅の精錬など工業も盛んだった。必要な薪や木炭は、周辺の里山からの供給kではとても間に合わなかった。記録によると、土佐(高知県)のほか阿波(徳島県)、伊予(愛媛県)など四国各藩のほか、遠く九州からも運ばれていた。p.37

 それだけの距離を運んでもペイするだけの値段で売れたってことだよな。どんだけ逼迫していたかという話だ。まあ、水運の場合、距離が増えても、それほど費用が上がるものでもなかったかもしれないが。九州はどこからだろう。東岸からは当然だろうけど。
 熊本でも、天草あたりから薪が入っていたそうだが。金峰山からも当然供給されただろうな。

 国内だけではなかった。明治の北海道開拓時代は、ミズナラの大木が大量にアメリカに輸出されていた。これらの木材は、アメリカの大陸横断鉄道の建設によって必要となった大量の枕木に当てられたらしい。当時は、枕木用の木材輸出が大きなビジネスとなっていた。つまり日本の森林は、世界的な枕木の供給源だったのだ。p.105

 アメリカなら、わざわざ輸入せんでもストックは十分あるだろうに。それに、19世紀後半なら、アメリカまで木材を輸送するのも大変そう。どんな船を使ったのだろうか。西部だと、日本から持っていくほうが、東海岸やカナダ辺りから持っていくより安かったのかね。

 パッと散るサクラに日本人の心性を感じるとした昭和初期の論者とは違う。また「赤松亡国論」が登場する以前だが、痩せ地に生えるマツを好ましいとする。全体として特異な風景に美を見つけようとしたようだ。身近な自然の風景に愛着を感じる感性は、明治の日本には育っていなかったのではないか。p.144

 志賀重昂の『日本風景論』に関連して。水墨画的感性というか、江戸時代の盆栽の「蛸作り」や変化朝顔に通じる感性というか。

 ちなみに私は、日本で択伐・天然更新が不可能だと思っていない。十分可能だと感じている。日本の関係者は植物種数が多いことなどを持ち出して難しさを強調するが、それは下手な言い訳だ。
 実は成功事例も各地に点在している。その多くは、篤林家と呼ばれる山主が森づくりを行なったものだ。代々林家で森を見る目を鍛えた後継者がいたり、所有を法人化しても総意として森を守り抜く社是があるケースだ。あるいは木曽の国有林で長期的な実験が行なわれたところも、現在は見事な針広混交林が育っている。
 その中には二十数年前までスギやカラマツ、トドマツなどの一斉林だった森もあった。所有者が方針を転換したら、短期間で森の姿は変わったのだ。それを知ると希望を感じる。p172-3

 へえ。森の姿って、結構短期間に変わるものだな。