鶴間和幸『人間・始皇帝』

人間・始皇帝 (岩波新書)

人間・始皇帝 (岩波新書)

 司馬遷による『史記』の記述の検討と出土文字史料から、始皇帝の生涯を再構成する。まあ、2200年前のことで、タイトルにあるような「人間」始皇帝が明らかになっているかというと、微妙感はある。「肉声」が見えてくるような感じはしないな。
 しかし、出土文字史料の豊穣さがすごいな。古井戸に遺棄されたとか、墓の副葬品だったとか。それによって、後世に改竄された可能性が高い史料より、同時代の眼で、検証できるようになった。
 出生から始まって、即位、家臣粛清、暗殺未遂、統一後の巡行、「中華」を意識する動き、死去、そして死後の混乱と帝国の解体と、それぞれ章を分けて、検討している。そもそも、『史記』には始皇帝の名前が「趙政」とあるが、出土文字史料の検討からすると「趙正」の方が正しいと、基本的事実からしてあやふやなのだな。


 統一後、6年目にして対匈奴・対百越戦争を開始しているが、これが短期間で帝国が崩壊した要因だったんじゃなかろうか。あちこちから批判を受けているあたり、相当無理したんじゃないかね。で、批判封じに言論弾圧に躍起になることに。焚書坑儒なんて悪名を後に残すことになった。
 始皇帝が、「天下」とか、各種の儀式に熱心であったというのもおもしろい。六国を征服した秦王から、新たな「皇帝」概念を創出するために、宗教的感情を利用する必要があった。匈奴や百越との戦争も、「天下」を創出するためのものであった。新しい概念を創出する難しさ。そして、それに果敢に挑んだからこそ、後世一目置かれる存在であり続けたのだろう。


 始皇帝死後の後継者争いも興味深い。長子である扶蘇を支持する勢力と末子の胡亥を支持する勢力の対立があったことを示唆する状況。そして、幼帝胡亥の教育係として、隠然たる力を振るった趙高。しかしまあ、始皇帝死後の粛清がすごいな。始皇帝の子供たちは、全て処刑されているとか。宰相李斯の処刑。反対者の処刑。弱い皇帝の支配確立に狂奔するうちに、内部から帝国が崩壊していった感じしかしない。


 始皇帝陵の話も興味深い。先日のNHKスペシャルでは、「官僚制」を作り上げた「近代的な」始皇帝像を描いていたが、陵墓の周囲に、大量に殉死させた人間が埋められた墓が大量にあることを知らされると、アレだな。意図的に、そういうのを空白にしたんだろうけど。フランシス・フクヤマなんかを担ぎ出していたが、とんでもない。やっぱり古代は古代だった。アレだけ目立つ陵墓だと、盗掘というか、墓荒らしの対象になっていそうだけど、中はどうなっているんだろうな。液体の水銀がかなり残っているようだから、かなり原型を保っているのだろうけど。つーか、水銀の池がある時点で、よっぽど気をつけないと発掘もできないよなあ。
 始皇帝陵の建設を含め、大量の「刑徒」を動員しているけど、それが在地の社会に与えた影響はどんなものだったんだろうか。反乱を起こされるくらいだから、相当悪影響を受けたんだろうけど。


 以下、メモ:

 したがって始皇帝の五〇年の生涯の実像に迫るには、『史記』からいったん離れなければならない。それは『史記』の記述を無視することではなく、『史記』のなかの始皇帝に関する記述を一つ一つ典拠を確認し検証していくことである。さいわいに司馬遷始皇帝の歴史を創作したわけではなく、ほとんど原史料の素材はそのままに、そこから取捨選択することによって始皇帝年代記を作成したので、『史記』に収められた素材の文章を武帝の時代から切り離して再構成する作業が可能である。その際に有効な方法は、始皇帝の同時代の考古資料と文字史料をを積極的に活用することである。しかし一九七四年まではそのような方法をとること自体が難しかった。p.2-3

 素材そのものは、原史料をそのまま引用しているって、司馬遷の歴史記述はかなり良心的だったんだな。

「己卯生まれは邦を去る」とは、戦国時代には国境を越えた移動が多かったことを示している。庶民の将来の願いは、男子は上卿(大臣)、女子は邦君(王侯)の妻になることであり、一方で男子では人臣(奴)、女子では人妾(婢)に落とされることがあった。人々が家柄に関係なく奴婢から大臣や王后にまでなる可能性があった時代が、始皇帝の生まれた時代であった。p.24

 相当に、社会が流動化していた時代だったわけだ。ガンガン階層が入れ替わっていく。

 その後二〇一三年にも同じ湖南省の益陽市で古井戸が発見され、戦国から秦漢、三国までの五〇〇〇枚あまりの簡とくが発見された。湖南省長沙市走馬楼の古井戸からはすでに十四万枚にものぼる三国呉簡が発見されて注目されており、また長沙市の別の古井戸では一万枚あまりの前漢武帝期の簡とくも発見されている。いまや湖南省は古井戸考古学の中心になりつつある。長江中流域の同庭湖に近い適度な湿度と泥土が、地下深い墓室と同じように簡とくを保存することになった。p.101

 すげーな。宝の山だ。

 このように臣下の提案と秦王の強い意思がなければ皇帝という称号は生まれなかった。よく言われるように。皇帝号の由来が地上世界の上古にさかのぼった「三皇五帝」からきているとすると、皇帝は三皇五帝を超えることにはならない。皇は「煌煌たる」という意味で帝にかかる形容詞ととると、皇帝とは煌煌たる上帝の意味になり、三皇五帝をも超えた存在となる。「帝」にはそもそも天上世界の帝星(北極星)と地上世界の帝の意味があった。秦王ははじめて二つの帝をつなげたように思われる。天帝の子で地上にいる人間皇帝よりも、人間を超えた天の皇天上帝に近づこうとしたのであろう。天帝を祀り、帝子を皇帝といい改めたことを示す詔書版からは、天子を超えて天に近づこうとした秦王の強い意思を読み取れる。こうして地上の七王の広大な領域を抱え込んでしまった秦王は、次第に天帝の権威に頼っていくことになる。p.107

趙高は始皇帝亡き後も、秦帝国の崩壊を、始皇帝を神格化することで乗り切ろうとしたのである。全国の官吏と民衆を始皇帝の鬼神に仕えさせる帝国を築こうとしたともいえる。その意味でも始皇帝の陵園の完成が急がれた。p.205

 やはり、相当無理していたってことだよなあ。死ぬ前も後も、相当オカルティックな手段に頼っていたと。